親に隠れて大事に読んだ文庫本

 高校生になったころ、父が突然、ラブホテルの経営を始めた。このときの経験が直木賞を受賞した『ホテルローヤル』に生かされている。ホテルローヤルは、父が経営していたホテルの実名である。

「つい最近、どうしてホテルを経営し始めたのかを知りました。当時、理容店に来ていたお客さんが父に『やってみない?』と言ったそうです。銀行は風俗業にはお金を貸さないので、そのホテルを建てた建設会社やリース会社の人たちがオーナーになってくれる人を探していた。そのころ、父はずっと勝っていた理容店の競技会で勝てなくなっていて、理容店への意欲がなくなっていたみたいで、ラブホ経営に乗り換えた。私自身、理容店になれと言われていたし、そのつもりでいたのに、いきなりラブホテルですからね、ちょっと驚きました」

 それでも桜木は、それまで理容店を手伝っていたように今度はラブホテルを手伝った。親は子どもの勉強に興味はなかったが、娘が仕事を手伝うと褒めてくれることもあった。

「親に褒められたい気持ちは強かったですね。こう言うと、まるで親の言いなりだったみたいですが、いつも『家業だから』と受け止めていたような気がします」

 反発しても意味がないと15歳の少女はわかっていたのだろう。生きていくために自分ができることをするしかない。その一方で、彼女は深く静かに自身の中にエネルギーをためていた。

「かつて理容店の2階を学生さんに貸していたんです。越していった人の部屋を掃除していたら、文庫本がぎっしり詰まったダンボールが捨てられていた。その中の1冊を手にとったら、同郷の原田康子さんの『挽歌』という小説で、ものすごく感動しました。本など読んでいると手伝いがおろそかになるから親に怒られる。だから物置に隠して1冊ずつ、親に隠れて大事に読みました。何か書けたらいいなあ、自分の名前で本を出せたらいいなと漠然と思ったのを覚えています」

 隠れて読む本は、すべて桜木の栄養になったのだろう。親に反抗せず、針の穴から希望の光を見るように自分の楽しみを見つけた彼女は、そうやって生きる強さを培っていったのではないか。高校時代は現代詩を書いていた。

「妙な欲が出て大学に行きたいと言ったことがあるんです。そうしたら、じいちゃん、ばあちゃん、両親に囲まれて、『女が大学に行ってどうする』と言われて。もっと勉強したかったけど、お金がないんだからしょうがない。やりたいことがあったら自分で働いて学ぼうと自分に言い聞かせました」

 高校を卒業したらラブホテルの仕事をするつもりだったため、学校からの就職斡旋は受けていなかった。ところが年の暮れになって、父親から「借金が返せない。給料も払えないから、外で働いてほしい」と言われた。

「しかたがないので、そこから自分で仕事を探しました。ホテルの営業に決まったんですが、1年ともちませんでしたね。仕事で市役所へ行ったとき階段から落ちてけがをして。本来は労災なんでしょうけど、会社から辞めるか辞めないかと迫られて自己都合で辞めたんです。知識や知恵がないって悲しいですよね。怒ることもできない」

 あらゆるできごとを自分の心身で受け止め、受け入れていく彼女の強さはこういう生活の中で育っていった。

「私はゴミ箱みたいなものだった」

 その後はハローワークで仕事を探す日々。高校時代に和文タイプの資格をとっていたため、タイピストで探してみると、裁判所での募集があった。見事に合格して技能職で採用された。そして帯広の裁判所に勤めていた「運命の人」であるキンちゃんこと、敏博さんに出会ったのだ。

「釧路と帯広のテニスの対抗試合が、中間地点の浦幌で開かれて、彼にひと目惚れしたんです。100パーセント好みだった。追いかけ回して猛アタックしましたね」

 一方、敏博さんは初対面のとき、彼女がタオルを持ってきていなかったので貸した記憶があるという。

「彼女とはそれからもいろんなイベントで会いましたね。キャンプに行ってもいつの間にか隣にいたり(笑)。その後、私は書記官の資格に受かって東京で2年、研修を受けることになったんです。彼女は毎日のように手紙をくれました。日常的に起こったことを、毎回、長く書いてくる。よく書くことがあるなと思いましたが、おもしろかったから読んでいました。私は筆無精で100回に1回くらいしか返事を書けなかったけど」

 桜木が24歳、彼が30歳のときに結婚した。長女と長男の結婚は、桜木の親に大反対されたが、彼女はこれだけは梃子(てこ)でも動かなかった。

「親の反対を押しきったのは初めてでした。それまでずっと“いい子”だったから。結婚だけは自分の意志を通しましたが、心の中ではずっと親に悪いと思っていた」

 結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦の道へ。27歳で長男、32歳で長女を出産し、夫の転勤に伴って道内を転々とした。暴力を振るわない人と結婚する。それが彼女の唯一の望みだった。夫は妻子に1度も手をあげたことがない。

 結婚してからも「いい娘」「いい嫁」であり続けた桜木の心境に大きな変化があったのは、30歳を過ぎたころだった。

「私が結婚してからも母は相変わらず、父の愚痴を垂れ流してきたんですが、私も出産後は付き合いきれなくなっていた。そうしたら母はストレスで体調を崩してしまったんです。私は子どもを抱っこしながら、父に説教しました。『もう孫もいるんだから、そろそろ落ち着いてくれないと』って。父は、私にではなく母に向かって、『おまえはいったい娘に何を言ってるんだ』と詰め寄った。すると母が急にもじもじしだして、『自分が産んだ娘だから何を言ってもいいと思っていた』って。その瞬間、私の中で何かがポキッと折れた。私はゴミ箱みたいなものだったのか。いろいろなことがあっても、私は親を絶対だと思って信じていた。でも自分が親になってみて、母のこのひと言を聞いたとき、私なら言わない言葉だと感じたんです。悶々とした思いが一気にあふれていきました」

「母のあのひと言がなければ、小説は書いていませんでした。心がポキッと折れてからは、いろんなことを負担に感じるようになって親のことも全部は背負いきれないと思いました」と語る桜木 撮影/吉岡竜紀
「母のあのひと言がなければ、小説は書いていませんでした。心がポキッと折れてからは、いろんなことを負担に感じるようになって親のことも全部は背負いきれないと思いました」と語る桜木 撮影/吉岡竜紀

 改めて自分のことを見つめ直してもみた。両親との関係、婚家の親との関係。結婚後、長男長女だから、「片方の親にしかできないことは両方にしない」と決めていた。子どもを連れて双方の実家に交互に通っていたこと、男の子を産まなければというプレッシャーがあって、第一子が男の子でほっとしたこと。義母に「いい嫁なんだ」と近所の人に紹介され、このあたりの風習を覚えておいてほしいと言われた日。いい子すぎて、みんなに期待をさせたことにも気づいた。

「実家と距離を置こうと決めたとき、それは必然的に婚家とも距離を置くことになると覚悟しました。最初はお正月に双方の実家に行かないと夫に言ったんです。理由は言わなかった。夫はおもしろくなかったと思いますよ。無言のうちに、私は嫁をとるか親をとるかの判断を彼に迫ったのかもしれません」