今月20日、福島県双葉町にできた『東日本大震災・原子力災害伝承館』がオープンから1年を迎えます。今も深刻な被害が続く原発事故をどう「伝承」するのか。課題は尽きません。

〈原子力明るい未来のエネルギー〉。この標語が書かれた巨大な原子力広報看板は、事故前から双葉町の象徴的存在です。しかし、オープン当初の伝承館には、看板の写真の展示しかありませんでした。批判が集まり、今年3月に実物展示になりました。先頭に立って実物展示を呼びかけたのは、少年時代に標語を考案した大沼勇治さん(45)。事故で故郷を追われ、今は茨城県内で暮らしています。「標語を考えたことは、今となっては『恥ずかしい記憶』です。でも、あの標語を信じていた時代のことを伝えなければ、事故は『なかったこと』にされてしまう」。大沼さんに「伝承」への思いを聞きました。

看板の実物展示はなかなか叶わなかった

――標語はいつ考えたのですか。

 小学6年生のとき宿題で出たんです。私は町内の双葉北小学校に通っていました。〈原子力〉を冒頭につけた標語ということで、〈明るい未来のエネルギー〉と続けました。当時は原発の「安全神話」を疑っていませんでしたから。標語が選ばれ、当時の町長から表彰されて、誇らしかったのを覚えています。看板になったのは1991年です。その20年後に原発事故が起き、自分が誇らしく感じていた看板は、みっともなく、忌まわしいものになってしまいました。

――原子力広報看板は町のシンボルだったと思います。原発事故後、2015年の12月に撤去工事が始まりましたね。

 その年の3月に撤去の話が出たとき、私は町に要望書を提出し、「現場で保存してほしい」と訴えました。署名活動には約7000人が協力してくれました。しかし、撤去は実施されてしまいました。看板は巨大です。高さが4.5メートルほどのところにあり、横幅は16メートルです。「支柱」と、14個の「文字板」、文字板を固定した「下地」の3つの部分にわかれています。工事のとき、町が下地の鉄板部分をガスバーナーで焼き切ろうとしたので、町長に抗議して、切断せずに保管してもらうことになりました。

――それから約3年後の'18年10月、福島県では伝承館の展示内容を決める「資料選定検討委員会」が始まりました。

 検討委員会にはメールで、「看板を展示してほしい」と伝えていました。でも昨年9月のオープン時に行くと、写真のパネルしか展示されていませんでした。「せっかく伝承館という建物ができたのに、偽物を展示するのはおかしい」と思い、高村昇館長にも直接、「実物を展示してください」と頼みました。

今年3月から伝承館の建物の外に展示された原子力広報看板の実物=福島県双葉町、牧内昇平撮影
今年3月から伝承館の建物の外に展示された原子力広報看板の実物=福島県双葉町、牧内昇平撮影

――原子力広報看板の写真パネルについては、当初から「迫力に欠ける」などの批判が相次ぎ、その結果、今年3月に実物を展示する方針に切り替わりました。

 今年1月、新聞に「実物展示の方針」という記事がありました。すぐに福島県知事と県の担当部署に「できるだけ当時の状況に近い形で展示してください」と手紙を出しました。でも3月に行ってみると、展示されていたのは「文字板」だけだったんです。支柱は立てず、足元に置かれていました。それでも「でかいな」とは思ったんですけど、20年ほどこの看板を見上げて生活していたので、納得する形ではなかったです。私にとっては高さ4メートルほどの「支柱」や、幅16メートルの「下地」も大事なのですが……。支柱も下地も、いわゆる電源三法交付金で建てられたものでしょうし。

――看板にこだわるのはなぜですか。

 国道6号を走ると、双葉の町並みとともに〈明るい未来のエネルギー〉の看板が見えました。あの景観が、私の人生が入っている大切な一場面なんです。私の家族の歴史も、あの景観の中に詰まっています。会社員時代は毎日、看板の下を車でくぐって出勤していましたよ。看板のそばに私の一家代々の土地もありました。そこには主に東電社員用のオール電化アパートを建て、収入源にしていました。

 思い出すのは、自分の結納の日です。妻のご両親を自宅に招待し、あの看板を紹介しました。「この町は原発で成り立っています。安心して娘さんを預けてください」と、約束してしまいました。結婚は'10年3月。その1年後に原発事故が起きました。