「通訳なし」を選んだ理由

 アメリカ同時多発テロが起きた2001年。ホーバス一家はカリフォルニア州サンディエゴへ移住。携帯関連のハイテク会社で8年働き、副社長まで上り詰めた。長男・長女が生まれ、2児のパパとして子育てにも奔走した。

 一方でバスケへの情熱も持ち続け、子どもたちのためにバスケチームを作り、お父さんコーチとして連日顔を出すようになる。指導する時間が多くなればなるほど「コーチ業1本で生計を立てたい」という思いが募って仕方がなかったという。

「女子のチームを教えてもらえませんか」

 日本女子Wリーグの強豪・JXサンフラワーズ(現ENEOS)から打診が来たのは2009年のこと。

 ホーバスHCは長男を伴って3度目の来日に踏み切る。練習拠点のある千葉県柏市に居を構え、プロコーチとしての一歩を踏み出した。

 10年近く日本から遠ざかったせいで日本語を忘れかけていたが、通訳はつけず、ダイレクトなコミュニケーションにこだわった。

「僕は中途半端が大嫌い。しょっちゅうアツイことを言うけど、通訳がいるとその熱が伝わらない。ときどき、選手たちを怒っているときに日本語を間違えるんです。選手たちが笑っているから気づくんだけど、それでいい。間違えても直接感情を伝えることが大事」

 何かにつけて「すみません」「ごめんなさい」と謝る日本人の立ち居振る舞い、先輩後輩を重んじる上下関係に違和感を覚えたが、日本流を受け入れなければ何も始まらない。そう自分に言い聞かせて取り組んだ。アメリカと日本のいい部分を融合させることがレベルアップの早道だと考えたからだ。

 朝から晩まで一緒にいた元JXサンフラワーズの佐藤清美コーチ(現在はENEOS・HC)は、ホーバスHCの前向きな姿勢を大いに歓迎した。

「トムは『日本が勝つには3ポイントを入れなきゃいけないし、走れるチームを作らなきゃダメ。それも身体がオートマティックに動くレベルに引き上げないといけない』と熱っぽく話していました。そのために休む時間がほとんどない練習を徹底して繰り返した。選手たちはものすごくキツかったと思いますね」

 2人は練習の後、飲食をともにしながら反省会をするのが常。父としての悩みを吐露することも多く、バスケに取り組んでいた中学生の息子や思春期に差しかかった娘のことを特に気にかけていた。

 妻・英子さんと長女が2010年に来日。一時的に4人で住めるようになったが、2011年3月11日の東日本大震災直後に妻と子ども2人はアメリカへ戻った。ホーバスHCは長い単身生活を強いられる。物理的距離はあったが、家族への思いは強まるばかりだった。

 娘のマリッサさんは父の思いをしっかり受け止めていた。

「私が小学4年のときから日米別居生活になりましたが、サンディエゴに帰ってきたときはフィギュアスケートの練習を見に来てくれたりしましたね。親父ギャグを言ったり、家の中で1万歩歩いたり、のんびりとブリトーを食べたりと楽しそうに過ごしていた。私自身も一緒にいられるのはうれしかったです」

 長男・ドミニクさんも「家族は距離が離れていたけど、密ないい関係を築いています」と話す。彼が高校生のとき、バスケの試合を応援するため、1日滞在の強行日程で日本からサンディエゴに帰ってきてくれたこともあったという。

 地道に努力する夫の姿を妻の英子さんは応援し続けていた。

「寂しい思いをさせてしまって申し訳なかったです。その分、トムはバスケのことを考えることで心を埋めていたのかな」

 たとえ遠く離れていても、愛する人々の存在が大きなエネルギーとなり、前へ前へと突き進めたのだろう。