疎開先で「かわいそうな顔をしろ」

 浅草のシンボルといえば、巨大な赤提灯をぶら下げた雷門だ。そこをくぐり抜けると、仲見世通りが真っすぐ浅草寺に向かって延び、着物や浴衣姿の若者たちでごった返している。その中ほどにある「飯田屋」という屋号の店が、冨永さんの実家だった。

母と弟との家族写真。左が冨永さん。母も生粋の商売人だったという
【写真】ダイエー創業者など、名だたる財界人の隣に並ぶ冨永照子さん

 現在は踊り用品や扇子などを販売しているが、冨永さんが産声を上げた昭和12年当時は、かりんとうを作る菓子屋だった。その裏手にある家で3人きょうだいの長女として育った。間もなく戦争が始まり、小学2年生のときに埼玉県春日部に疎開する。

「疎開先では、母が持っていた着物と物々交換するため、手を引っ張られて“かわいそうな顔をしろ!”なんて言われた記憶があります。イナゴやしじみをとって食べ、砂糖が手に入れば舐めさせてくれたものです。B29が飛んできたときは、田んぼに伏せました。防空壕には蚊がいっぱいいるし、頭にはシラミがわく。シラミは水銀を頭にぬって落としました。そんな生活だったんです」

 戦争が終わり、小学校5年生のときに浅草へ戻ってくると、あたり一面は焼け野原と化していた。仲見世も焼けてしまったが、母親たちはそこに露店を開き、菓子屋を再開したという。冨永さんは台東区立浅草小学校に通いながら、早朝から店の手伝いをした。

「ようかんを作って売っていました。セロファンで包むんですけど、私、子どもだからよくわからず、くっつけばいいと思ってセロファンを舐めていました。柏餅の葉っぱが食べ残されると、それをまた洗って使っていましたね」

 そんな幼少期を送る傍らで、祖母からは「貧乏人は三味線に限る。畳半畳もあればできるから」と教えられ、長唄を覚えるために三味線の稽古に通った。

弟と、七五三でのスナップ。すでに近所でも有名なガキ大将だった

「子どもがいたら面倒見ないといけないので、両親は働けない。だからお稽古に預けられたんです。長唄以外には、お花やお茶も。でもそれをサボって映画館に行っていましたね。ガキ大将だったから。学校でのあだ名は“女ターザン”でした」

 中学に入ると、店は商売替えをし、傘とショールを売り始めた。これが当たった。昭和25年に勃発した朝鮮戦争の特需景気も手伝い、飛ぶように売れたという。

 仲見世を手伝いながら学生生活を送った冨永さん。高校を卒業した5年後、同じ浅草にある老舗の和菓子屋『菊水堂』の若旦那と結婚する。出会いのきっかけは、戦争で焼けた浅草寺本堂の再建を記念した「金龍の舞」と呼ばれる行事だった。冨永さんは、芸者衆が乗る山車で三味線を弾き、若旦那は男衆の1人として舞を踊っていた。

「周りはみんな芸者でしょ。その中に、私のような堅気の若い娘が1人で三味線を弾いていたんです。そしたら観光連盟のおじさんたちの間で、“浅草を盛り立てるのに役立つだろうから、外へ出しちゃもったいない”“誰かとくっつけよう”と、私の知らないうちに話がどんどん進んでいたんです」

 そうして冨永さんは昭和35年2月、菊水堂へ嫁いだ。

「あんこの問屋さんから、菊水堂は金がない家だっていうのは聞いていました。それでも母が背中を押してくれたんです」

 結婚から9か月後には長女、そして東京オリンピックが開催された昭和39年には長男をそれぞれ出産した。

23歳で結婚、子宝にも恵まれたが数年で暗雲が立ち込めるように

 若旦那も最初の数年はまじめに働いていたというが、次第に結婚生活に陰りが見え始める。そのエピソードについて、

「浅草はそういうところなのよ」

 と、冨永さんはあっけらかんと語るが、にわかには信じ難い話が飛び出した。