2階建てバス運行のため大臣に直談判!

 ダイエー創業者の中内功(※「功」は正しくは工に刀)氏、ホテルニューオータニ社長の大谷米一氏、イトーヨーカ堂設立者の伊藤雅俊氏……。

イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏と。名だたる財界人から信頼を集めた
【写真】ダイエー創業者など、名だたる財界人の隣に並ぶ冨永照子さん

 冨永さんが懇意にしていた財界の重鎮たちだ。いずれも浅草おかみさん会の町おこしを陰で支えてくれた。その出発点となるおかみさん会結成の背景には、東京オリンピック後に押し寄せた浅草の衰退期があった。 

 戦後の復興を経て、浅草寺本堂が再建されたのは昭和33年のこと。その2年後にはパナソニックの創業者、松下幸之助氏の寄付で雷門が再建され、東京オリンピックの開催に向けて浅草の景気はうなぎ上りだった。特に映画館や劇場が軒を連ねる盛り場「浅草公園六区」(通称六区)を訪れる客は、映画がはねた夜に、仲見世をにぎわせていた。「100円の札束を足で踏んで一斗缶に入れる店もあった」(冨永さん)ほどだ。

 演歌歌手の島倉千代子が昭和33年にリリースしたヒット曲『東京だョおっ母さん』は、田舎から出てきた娘が母の手を引いて東京見物するさまを歌っているが、その歌詞に次のような一節がある。

《お参りしましょよ観音様です おっ母さん ここがここが浅草よ お祭りみたいに にぎやかね》

 当時の庶民にとって、浅草は憧れの地だったのだ。

 ところが、東京オリンピックを契機に普及したカラーテレビの影響で、浅草の映画館から人々の足が遠のき、封切り映画の代わりに、ポルノが上映されるようになった。

 浅草観光連盟の冨士滋美会長(73)が解説する。

「六区の人通りがパタッと止まり、その様子を写真とともに“斜陽浅草”と報じられました。浅草の人たちは怒りましたね。盛り場としてにぎわってきた六区がさびれていったのは、浅草だけでなく、日本にとっても大事件だったのです」

 生まれ育った街の衰退に危機感を抱いた冨永さんはある時、地元の女性たち数人で井戸端会議を開いた。

「このままでは浅草がダメになってしまう。子どもたちに街を引き継ぐためにも組織を作ろう」

 こうして昭和43年、浅草おかみさん会が結成された。初代会長には、すき焼きで有名な『浅草今半』の女将・高岡恵美子さんが就任。会として最初に取り組んだのは、浅草観光案内図の看板作りだった。

「雷門や観音様、国際劇場などの観光スポットを書き込んだ案内図を作ることになったんです。資金は露店販売をやって捻出しました。そしたらその取り組みがマスコミに取り上げられ、女性が立ち上がれば注目してくれることに初めて気づきました」

 菊水堂が商売替えをしたのもこのころだ。六区の低迷で和菓子を買い求める客も減ったため、昭和47年、蕎麦店『十和田』を開業した。冨永さんの弟が、すでに浅草で蕎麦店を始め、繁盛していたことも大きい。

 続く町おこしでは、多少の無理は持ち前の江戸っ子気質で押し通した。

 2階建てのロンドンバスを導入したときのことだ。バスの高さは4・3メートルで、日本の法律で定められた高さの制限3・8メートルを50センチオーバーしていた。なんとかできないかと冨永さんは、台東区の旦那衆とともに運輸大臣室へ乗り込み、直談判したのだ。

「男性たちがお願いしてもダメだけど、私たち女性が“ねえ、先生、お願い!”ってやると口説けたんです。女の強みですね」

 この結果、2階建てバスの導入が認められ、浅草─上野間で昭和56年、運行が始まった。

昭和53年10月、冨永さんらの熱意が実り、2階建てバスが本格運行をスタート。浅草寺前を走らせた

 さらにおかみさん会は、浅草サンバカーニバルやジャズフェスティバルなども開催し、浅草六区の再開発構想が持ち上がったときには、つくばエクスプレスの誘致に奔走した。

今年で40周年を迎えたサンバカーニバルは、浅草の夏の風物詩に

 なかでも六区再開発の目玉事業、『浅草ROX』の建設には、ニューオータニの大谷米一氏が出資をしている。もともと、父親で創業者の大谷米太郎氏が浅草観光連盟の初代会長をしていた関係もあったが、社長の大谷氏が十和田に来たのがその始まりだ。

 冨永さんが説明する。

「旦那が死んだ後も愛人を援助していたことが花柳界で少し評判になっていました。それを聞いた大谷さんが私に興味を持ってくれたらしく、お店に来たのです」

 これが契機となってニューオータニに十和田の模擬店を出し、その後のROX誕生につながった。 

 ダイエー中内氏との出会いは、ジャズフェスティバルに偶然、客としてやってきたのがきっかけという。

ダイエー創業者・中内功さんとは、ともに好奇心旺盛で気が合った

「そしたら中内さんとすっかり仲よくなっちゃって。そのご縁で、仲見世に一緒に揚げ饅頭屋をつくりました。お互いの名字から1字ずつ取って『中富商店』。浅草六区には『欽ちゃん劇団』もつくってもらいました」

「芸人は浅草の宝」と萩本欽一さん率いる劇団の団員たちにも食券を配布

 浅草には当時、タレント・萩本欽一氏が主宰する「欽ちゃん劇団」のためにつくられた劇場があった。そこへ出演していたのが、地元出身の芸人「東MAX」こと東貴博さん(51)である。

30年来の付き合いになる東貴博さんら、多くの若手芸人を支えてきた

「女将さんとは、もう30年来の付き合いですね。すごく面倒見のいい方で、若い芸人や役者を応援してくれるんです。僕がテレビに出る前の駆け出しの、20歳過ぎのころ、特別食券を配ってくれ、何度か天ぷら蕎麦を食べさせてもらったことがあります」

 楽屋には冨永さんの孫も一緒に訪ねてきて「頑張ってる?」とエールを送ってくれたという。

「でも楽屋って普通はそんなに人が入ってこないじゃないですか? 関係者だから、もちろんいいといえばいいんですが、不思議な感覚でした。舞台が始まると、公演の最中に“頑張れ!”と声をかけてくれるんです。それがありがたくもあり、また邪魔でもありましたね(笑)」

 そう江戸っ子らしい毒舌を交えて話す東さん。2階建てのロンドンバスが浅草を走っていたときには「意味がわからなくてテンションが上がった」と言い、何度も乗った。

「僕が小学生のときでした。学校でバスの名前が募集され、みんなで一緒に考えたんです。でも結局、『さくら』とかオーソドックスな名前に落ち着いて、つまんねえなあと思った記憶があります。サンバカーニバルは雷門通りで裸同然のお姉さんたちが踊っていて、当時、中学生だった僕はめちゃくちゃ興奮しましたよ。

 大人になってから、女将さんが仕掛け人だと知りましたが、まあパワーと馬力がすごい方です。浅草の催し物の陰には女将さんがいて、もめ事の陰にも女将さんがいる。そんなすごい女将さんがいるからこそ、浅草には話題が尽きないんです」