ミナミのホステスから看護師に転身

 上野さん自身、若いころはしんどい状態にあった。1987年、19歳のときに大工見習いをしていた2歳下の男性と入籍した。10代で結婚に踏み切ったのは、切実な理由があったからだ。

「うちの家庭環境が悪すぎて。私が稼いだお金を渡すように言われ、渡さないと暴力を振るわれる。いわゆる毒親だったんですよ。そんな実家から逃げようと思ったときにつかんだのが、結婚だった」

 夫は落ち着きがなく、こだわりが強くて、何かあれば黙り込んでしまうタイプ。それでも夫を支え続け、結婚した翌年には長男が誕生。さらに翌々年に次男が生まれ、次々と子宝に恵まれた。

 1992年、長女の千草さんが生まれる直前のこと。出産準備で実家に帰っていた上野さんが健診用紙を取りに自宅へ戻ると、洗濯物が整然と干され、家の中が妙にきちんと片づいている。家事は上野さん任せだった夫が、こんなふうにきれいに保てるはずがない。

「見なかったことにしようかと思ったけれど、近所のおばちゃんがわざわざ教えてくれたの。“あんたの友達の女の子、ずっと来てたんやで”って(笑)。それで長女が1歳になる前に別れました。まぬけな話だけど、浮気相手は私の親友だったんです」

 シングルマザーとなった上野さん。やむなく実家に戻り子どもを両親に託して、大阪きっての歓楽街・ミナミのサパークラブでホステスとして働き始める。ところが悪いことは重なるもので、ギャンブル依存だった父親の悪癖に拍車がかかった。負けが込んで家で暴れる父親を見て、長男はおびえ、次男には吃音が出るようになってしまった。

「元夫に電話して“とにかく子どもたちを1週間、預かってほしい”と頼んだんです。快諾してくれたけど、これが息子たちとの“最後の別れ”になってしまった。それっきり会えていないんです」

 元夫には息子たちを強引に引き取る思惑があったのだ。取り返したかったが、乳飲み子の長女を抱え、父親の暴力にも悩む上野さんに裁判を起こす余裕はなかった。

 以来、上野さんはミナミでのホステス業を本格化していく。持ち前の明るさで人気を集め、売れっ子になるまで時間はかからなかった。収入も跳ね上がり“給料袋が(分厚いことで)テーブルに立つ”状態に。生活は派手になり、気に入った洋服は値札を見ることもなく買い漁った。

ホステス時代の店があったミナミの宗右衛門町。気さくな上野さんはたちまち売れっ子に 撮影/齋藤周造
【写真】『おかえり』の2階、秘密基地のようになっている子どものスペース

 1995年、27歳のころ。千草さんの保育園で親の職業について話す催しがあった。

「千草から“お母さんの仕事って何?”と聞かれたんです。出かけるときはすっぴんなのに、きれいに化粧して帰ってくる。それで“どんな仕事なんだろう?”と思ったんやろうけど、言えなかった。私がやっていたホステスはひと言でいうと、“男をだまくらかす仕事”(笑)。そんなの子どもに言えない。それでスパッとやめました」

 この先どうしようかと考えながら大阪の副都心・江坂を歩いていると、“看護助手を募集”と書かれた張り紙が目に留まった。しかも“資格不問”とある。

「よっしゃ、これならいける!病院勤めなら、子どもも保育園で言える。そんな単純な理由で、看護助手の仕事に飛び込んだんです」

 当時、看護助手の月給は手取りで12万円ほど。テーブルにドンと立つほどだった給料袋は、情けない状態で寝そべった。「顔が生意気だから」という理不尽な理由で、先輩たちからいじめにも遭った。

 それでも頑張り続ける上野さんに、看護婦長が声をかけてきた。「看護学校を目指して頑張れへん?助手で終わるのはもったいないよ」と─。そこで看護学部のある短期大学に入学。夜勤を続けながら昼間は大学に通い、看護師の資格を取得した。

 看護師となってからは、精神科の急性期病棟で働き始めた。ここで上野さんは、さまざまな疾患を抱える患者に出会う。

「出産を終えたばかりのお母さんが、全裸の状態で運び込まれてきたんです。子どもを手渡され“私の子じゃない!こんな子いらない!”と、パニックを起こしていました」

 こんな世界があるとは……、衝撃を受けた。

「認知症の女性が入院したとたん、金属製のベッドを壊しながら“ここから出せ!”と叫び、暴れたこともありました。でも症状が落ち着くと、温厚でかわいいおばあちゃんに変わる。人間の極限の姿を見せてくれる病棟で、興味が尽きなかった。人が変化していく様子は、私にとって最大の好奇心(の対象)なんです

 看護師として中堅になった2005年、上野さんはホステス時代に知り合った銀行員と再婚した。2人の間に'10年には長男が、'14年には次男が誕生。はた目には順風満帆に映るが、上野さんは新たな苦難に見舞われていた。