ばっちりメイクでホームレスに炊き出し

 うつ状態から徐々に回復してきた2015年5月。上野さんがテレビをつけると、ホームレスへ炊き出しをする様子が映し出された。

「支援者と野宿者のおっちゃんたちが、友達同士のように話していました。それを見て“おもしろそう。私も話してみたい”と思ったんです」

 持ち前の好奇心が再び、ムクムクと頭をもたげた。こうなると上野さんは行動が早い。翌日にはホームセンターでプラスチックケースを購入、パンやバナナを積んで、友人と一緒に扇町公園へ出かけた。

 日本一長いアーケード街・天神橋筋商店街の近くにある扇町公園には、当時、多くの人たちが野宿をしていた。その支援を思い立ったのだ。

 志こそ立派だったが、服装がまずかった。スーツ姿で化粧はバッチリ、足元はヒール靴と場違いな格好。毎日通ったが、誰も何も受け取ってくれない。ところが通い続けて3週目、変化が表れ始めた。

「ホームレスのおっちゃんたちの目が笑っているの。ある日、ついにしゃべりかけてくれた。“ねえちゃん、どこの店の子?”って(笑)。ホステスと思っていたんやね」

炊き出しを行っていた大阪市北区の扇町公園。口コミで70人ものホームレスが集まったことも 撮影/齋藤周造
炊き出しを行っていた大阪市北区の扇町公園。口コミで70人ものホームレスが集まったことも 撮影/齋藤周造
【写真】『おかえり』の2階、秘密基地のようになっている子どものスペース

 4週目になるころ、大阪は梅雨に突入した。蒸し暑くてスーツなど着ていられない。ジーンズをはいて首からタオルを垂らした格好で行くと、パンを受け取ってくれた。

「やった!と思った。おっちゃんから“よう諦めんと来たね”と言われました」

 やがて炊き出しで配る食事は、パンとバナナから手料理にパワーアップ。上野さんと一緒にホームレス支援を行っていた友人・松中みどりさんが振り返る。

「敏子さんはお料理が上手で、おにぎりやおかずを何種類も作って持参するように。“どうしても温かいものを食べさせたい”とスープや味噌汁を配ることもありました。そうするうちに評判を呼んで、多いときには70人もの人が集まるようになったんです」

支援活動は「自分のためにやっている」と強調する上野さん。『おかえり』も「私の居場所」と言ってはばからない 撮影/齋藤周造
支援活動は「自分のためにやっている」と強調する上野さん。『おかえり』も「私の居場所」と言ってはばからない 撮影/齋藤周造

 炊き出しを通して出会ったホームレスの中に、今なお忘れられない人がいる。2011年3月11日の東日本大震災で被災し、家も仕事も、家族もすべて失ったという男性。

 口を開けば“死にたい”とこぼし、上野さんが食事を差し出しても、けっして受け取ってくれなかった。

 ところがある日、カレーを振る舞っていると、男性が初めて反応を示したという。

「“今日は何や?”と聞かれて。“カレーやで”と言うと“欲しい”って。手渡すと、がっつくように食べ始め、2杯目が欲しいと言う。3杯目になると、そのおっちゃん、泣いているんです。

 “どないしたん?”と聞くと、“これ、うちの味だ”って。家で作っていたカレーは、子どもが『バーモントカレー』の甘口でなければ食べなかった。その味と同じだと言うんです。3杯目を食べ終えると“とりあえず明日、頑張ってみるわ”と言ってくれました」

 いっさいのサポートを拒否していた男性が、温かいカレーを差し出されたことで変わったのだ。食べ物が持つ力を実感した出来事だった。

「それ以来、“おなかがすいたら、ここにおいで。しんどい人はここに食べにおいで”というのが、私の活動の中心軸になりました。誰かのためにやるという気持ちは、今も昔も基本的にないんです。私は好奇心が強くて“この人、なんで困っているんだろう”と、ただ知りたくて。私自身がしゃべりたいだけなんよ」

 炊き出しをすることで、うつから解放されたわけでも、身体の不調が治ったわけでもない。だが、上野さんの中で進むべき道が見え始めると、少しずつ心に灯りがともるようになっていった。