兄の口笛から洋楽好きに

 終戦からしばらくして、疎開先から、目黒の自宅に戻った。家の一部を下宿として貸し、母と娘の生活費にあてた。

「病気で学校を休んでいたときに、家のラジオで米軍放送を聴いていると、耳慣れた曲が流れてきました。亡くなった長兄が、最後の休暇で家に防空壕を掘りに帰って来てくれて、口笛を吹いてたんですね。曲名を聞くと、“僕が作った曲だよ”と言ってたんですが、その曲がラジオから流れてきたんです。後に調べたら、『スリーピー・ラグーン』という1941年にアメリカで大ヒットした曲でした。

 私は、わぁ、兄の曲だとびっくりして。それから米軍放送を聴きまくって、調べまくって、楽しむようになりました。それが後に音楽に関わる私の原点となったんです。死んだ兄の分も、私は生かしてもらってるんだなぁと今も思います」

 戦後の教育と文化の中で自由を謳歌するようになった湯川さんだが、そのときに立ちはだかったのが、母親だった。

「母は親が決めた相手と結婚して、添い遂げるのが女の幸せと教え込まれた世代ですから。私に対しても“高校を卒業したら必ず結婚してね”と言うのが口癖でした。実は私、高校時代には好きなボーイフレンドがいて。

 でも母には、下宿人の中に意中の人がいたんです。立派な大学を出た、結婚相手としては申し分のない人でしたが、私としては親の決めた相手との結婚なんてまっぴらごめんだったので、“食べていくための結婚なんて、永久売春じゃないの”という言葉をぶつけちゃって。母に“なんて失礼な!”と、バチーンと頬をひっぱたかれました(笑)」

 とにかく自立がしたくて、高校2年のときに、映画公開時のキャンペーンガールに年齢をごまかして応募した。

「合格した後に実は16歳だったとバレちゃったんですけど。映画が好きでたまらないと語ったら、そのまま仕事を続けさせてもらえて。キャンペーンが終わってからも、映画の試写券やタダ券をいただけたんです。

 それから、どれだけ映画館に通ったか。そのころは入れ替えがないから、朝からお弁当を持っていって、同じ映画を4回見る。それだけ見たら、口説かれたときの断り方とか、どんどん覚えて。いい英語の勉強になりましたね」

 次は現代俳優協会の募集に応募し、合格。女優の道を歩み始めた。