8歳の時に亡くなった軍人の父

 湯川さんは1936(昭和11)年1月22日生まれ。海軍将校だった父親、先祖は武家だった家から嫁いできたという母親のもと、18歳上の長兄と、15歳上の次兄、12歳上の姉とともに、東京目黒の600坪もある大きな家で暮らし、育った。

「私は父が50歳を過ぎて生まれた末娘で、すごく可愛がってもらったんです。仕事を終えて帰ってくる父の姿を見つけると、飛んでいって抱きついて、おんぶしてもらうの。父は背中の首もとに小さなイボがあったんですが、私はそこに吸いついて、ちゅーちゅー乳首のように吸って(笑)。父は“やめてくれぇ!”とくすぐったがりながらも、おんぶを続けてくれたものでした」

 軍人ではあったが、家ではリベラルでモダンな父親だったという。家の洋間にはピアノと蓄音機を備え、夫婦でダンスを踊ることも珍しくなかった。

 しかし、そんな豊かで幸せな生活は長く続かなかった。1941(昭和16)年12月、日本は太平洋戦争に突入。作戦本部での無理な勤務が続いたためか、父親は病で倒れた。

「昭和19年4月のことでした。病室のベッドに父が寝ている横で、白衣を着たお医者さまが“申し訳ありません。お救いすることができませんでした!”と頭を下げられた。戦時中でお薬もない時代でしたから。急性肺炎をこじらせ、入院して3日で父は逝ってしまいました」

 湯川さんがまだ8歳の小学生のときのことだった。

昭和15年4歳当時、目黒の自宅で撮影した家族写真
昭和15年4歳当時、目黒の自宅で撮影した家族写真
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「葬儀のときに、陸軍将校だった叔父が軍服姿でやってきて、父が持っていた刀や鎧を形見に欲しいと騒いだんです。母が“葬儀の日ですので”とお断りしたら、叔父は怒って出ていくときに、玄関先に咲いていた野スミレの花を“こんな戦争中の非常時に、花など植えおって”と踏みにじった。

 それは、父が母と私のために増やしてくれていた大切な花でした。庭にいた私が叫び声をあげたので、喪服の母が足袋裸足のまま飛び出してきて、私とスミレの花を背中に、“これ以上のご無体はけっこうでございます。お引き取りくださいませ!”と叔父に向かって毅然と言い放ちました。その母の姿の美しかったこと。今でも記憶に残っています」

 父親が亡くなった翌年の昭和20年4月、長兄は出征先のフィリピンで戦死した。

「あと4か月で戦争が終わるというのに、なぜ国は退却させなかったのか。そもそも、戦争がなかったら、どれだけの人の命が失われずにすんだか、と思わずにはいられません」

 昭和20年8月15日、終戦を告げる玉音放送は、疎開先の山形県米沢で母親とともに、聞いた。

「父が死んだときも兄が死んだときも、母はひとつぶの涙も見せなかった。戦後、“どうして?”と尋ねたら、“多くの人が戦争で亡くなっているのに、軍人の妻として泣くわけにはいかなかった”と言うんです。

 思えば母の世代の女は、我慢ばかりしていたんですよね。でも、私は自由に新しい時代を生きたかったから、“私はお母様のように我慢する女には絶対になりません。泣きわめく女になります!”と宣言したんです。そしたら、“私もそうしたかったわ”と、母はそのとき初めて涙を流しました