『8時だョ!全員集合』にはヘリコプター移動

ピンク・レディー(増田惠子)インタビューは90分以上も続いた
ピンク・レディー(増田惠子)インタビューは90分以上も続いた
【写真】今もなお美貌を維持するピンク・レディー増田惠子

「『スタ誕』の前にまずフジ系の『君こそスターだ!』に出たんですが、落ちてしまいました。自信満々だったんですけどね。プロ歌手みたいで新鮮味がなかったみたいです。何がいけなかったのかがわかったので、本命の『スタ誕』ではミニの衣装は着ないで、誰も知らない曲を踊らずに歌いました。それが功を奏したんでしょうね」

 見事にデビューを勝ち取ったわけだが、'76年4月に上京して、デビューは8月25日。その年の新人賞レースに食い込めるか微妙なタイミングだったため、メディアには出られるだけ出ようという作戦で、事務所はデビュー前から仕事を詰め込んだ。

「5月末くらいから、仕事がひっきりなしに入るようになり、睡眠時間は2時間ほど。当時は歌番組自体が多かったし、日テレ系の『カックラキン大放送!!』のような歌ありのバラエティー番組がたくさんありましたからね。ただ、当時はみんな忙しくて、私たちだけが特別という感じじゃなかったんです。コンサートは毎週土日、夏休みや春休みは全国縦断コンサートというのが普通でした。生中継だったTBS系の『8時だョ!全員集合』にヘリコプター移動したことも。体力的にもかなりキツかったですが“(西城)秀樹は1日3回コンサートだから”ってマネージャーに言われていて、ほかの方たちはもっと大変なんだって思っていました」

 あまりに忙しすぎて、売れていることに気づかなかったという。

「売れているって実感したのは、4曲目の『渚のシンドバッド』のときですかね。地方の収録でタクシーで現場まで行くときに、白い砂浜がずっと見えていたんですね。近づくと、黒い岩みたいなものが、ボコボコと並んでいる。砂浜なのに岩場って変だなと思ったら、岩じゃなくて人の頭だった(笑)。こんなに人が集まっているということは、それだけ人気になっているのかなって思いました」

 デビューした年にレコード大賞新人賞に輝き、翌年の‘77年には『ウォンテッド』でレコード大賞大衆賞を受賞した。

「その年はレコード大賞を取れるのでは? という噂があって、新人が取れるはずないと思いながらも、どこか期待している部分がありました。実際には『勝手にしやがれ』で沢田研二さんが受賞しました。記者会見で沢田さんが“若い2人の女の子が、食べる時間も寝る時間もない中でこんなに頑張っているんだから、男の自分が弱音を吐いちゃいけない。頑張らなきゃ”って言って下さって。小学校のときにザ・タイガースが大好きでしたから、憧れの人に優しい言葉をかけて頂いてうれしかったですね」

 もうひとりの“憧れの人”とも出会う。第7弾シングルの『サウスポー』は、当時ジャイアンツの4番打者としてホームラン世界記録を樹立した王貞治と左利きの女性投手が対決するという歌詞だった。

「小さいころは近所の男の子と野球をやったりしていたので、王さんが大好きでした。あるとき、王さんとの対談のお仕事があり、初めてお会いしたときは“王さんだ!”って心の中で叫んでしまったくらい感動しました」