先輩の死がきっかけ。店の規模を縮小

 事業を広げて岡田さんは忙しくなる一方だった。3年前、大きな決断をする。

「僕は経営者だし、自分で好きでやっているんだけれども、年中無休に近い状態でずっと働いていたんです。40代を目前にし、働き方を変えないとな、と考えていて。

 ちょうどそのころ、同業の50代の先輩たちが病気で亡くなることが続いて。中でもいちばんショックだったのは、最初の割烹料理店で、東京行きをすすめてくれた先輩が亡くなったこと。恩人ですから……」

東京ビッグサイトにて開催された「ジャパン・インターナショナル・シーフードショー」に参加 撮影/伊藤和幸
東京ビッグサイトにて開催された「ジャパン・インターナショナル・シーフードショー」に参加 撮影/伊藤和幸
【写真】海の上で寿司を握る様子。釣りたての魚をその場で寿司に

 岡田さんの上の世代は、夜遅くまで働いて、そのあとお酒をガブカブ飲む、そんな豪快な人が多かったという。

「自分も健康に留意しないといけないと思ったし。僕には小学生の息子2人がいるので、家族の時間ももっと持ちたかった。それで事業規模を縮小して、また1人でやることに決めたのです。もちろん従業員の今後のことも考えなければいけないですから、解散の日程を事前に伝えました」

 特に右腕として10年以上働いてくれた弟に、解散を告げるのはつらかったと話す。

「弟も悲しかったと思う。でも『大介さんが選択したことが第一。今後のことは僕が自分でどうにかするので大丈夫です』と言ってくれて、ホントよくできた弟ですよ。9歳年が離れているので、兄貴というより、板前の先輩として、面倒見てくれてありがとう、という気持ちを常に持ってくれている。それが言葉の端々から伝わってきます」

 ほかの従業員も、岡田さんの思いを理解してくれて、次の職場も決まった。前出の大山さんの場合は──。

「僕は18歳でここに就職したときから、独立を念頭に、『オレのことはステップアップに使ってくれ。6年ぐらい修業すればいい』と大介さんに言われていました。ちょうど解散のころが6年目で、僕も退職しました。今は酢飯屋の併設カフェで土日限定の海鮮ランチを作ったりしています」

現在も酢飯屋に併設されたギャラリーやカフェは引き継がれて運営されている 撮影/伊藤和幸
現在も酢飯屋に併設されたギャラリーやカフェは引き継がれて運営されている 撮影/伊藤和幸

 実は併設するカフェとギャラリーの運営は、前出の有馬さんが引き継いだ。

「最初はカフェとギャラリーは閉じる、と岡田さんは言っていたんです。でも、カフェのランチを楽しみにしているお客さんもいるし、ギャラリーの予約も埋まっていました。私はもともとお客さんだったからわかるんです。好きなお店がなくなったら寂しい。だから、私がやります! と立候補しました」(有馬さん)