現役早大生ゲイボーイ

 宮本家は女性が強い女系家族であったが、マキさんの母はその中でも特に強く、きらびやかだったという。

高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた
高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた
【写真】女装姿で通っていた大学時代。普段の授業、ゼミ、卒業式にも女装をしていた

「86歳で亡くなった母は、昭和2年生まれだけど背が166センチもあって、父が159センチしかなかったので、よく“蚤(のみ)の夫婦”と言われていたそうです。母はもうホントに派手好きでね、性格もハッキリしていてズケズケとものを言う人で、アタシもその影響をすごく受けていると思います。もう本当に母のことは大好きで。おしゃれで、シャキシャキとしてました。そうねぇ……今の女優さんでいうと、草笛光子さんや高畑淳子さんみたいな感じかしらね」

 婿養子の父はまじめで働き者であったが、家での発言権は祖父母、そして母の下だった。肩身の狭い思いをしてストレスをためていたのか、ある日酒に酔った父が母に暴力を振るってケガをさせ、祖父から叱責(しっせき)され家を追い出されることになってしまったという。マキさんは当時、多感な10代半ばの中学生だった。

高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた
高校生のときのマキさん。頭が良く“神童”と呼ばれていた

「でも祖父が戦前から市議会議員を務めているような家なので、父はしばらく離婚を許されず、祖父の選挙や親類の結婚式、お葬式などがあると家族として呼ばれていましたね。アタシは動揺はしたけれど、影の薄い父でしたから……しかもすぐに高校の受験があったりで、やがて普通の生活に戻っていきました。父はアタシの妹が結婚したときにお役御免となって籍を抜き、離婚しました。もう、その父も亡くなりました」

 高校へと進学したマキさんは地元の書店でゲイ雑誌を買うようになり、雑誌の通信欄で手紙のやりとりをした人に会いに東京へ出かけたり、やがて水戸にゲイが集まる隠れ家的なスナックがあることを知って通ったりなど、親には言えない秘密の冒険を繰り返すようになった。

 もともと頭がよく、成績の良かったマキさんは現役で早稲田大学教育学部国語国文学科に合格。上京し、早稲田鶴巻町のマンションで一人暮らしをすることになる。そしてすぐに向かったのは……そう、ゲイが集まる街・新宿二丁目だった。華奢(きゃしゃ)でスラリとした若いマキさんは、よくモテたそうだ。

早稲田大学在学中から女装をするように。普段の授業やゼミにも女装姿で通っていた
早稲田大学在学中から女装をするように。普段の授業やゼミにも女装姿で通っていた

「でも初めて新宿二丁目へ行ったときは、まさかアタシが女装するなんてこれっぽっちも思ってなかったんです!」

 女装するきっかけは、新宿二丁目のなじみの店で遊んでいたところ、居合わせたひとりのオネエさんから「あんた、色白で華奢な感じだし、磨いたらきれいになるわよ?面白いし歌えるし、そこまでオネエだったらウチの店にバイトに来たら?」と誘われたことだった。その人が働いていたのが、六本木にあった老舗のゲイバー『プティ・シャトー』だった。テレビなどでその名前を知っていたマキさんは、迷ったもののアルバイトすることを決意、接客業のイロハと美しく装うことを一から叩(たた)き込まれたという。

卒業式にも女装で出席した
卒業式にも女装で出席した

「でもある日突然東京のマンションへやって来た母に、部屋にあったドレスなどが見つかってしまって。怒り心頭の母にお店も辞めさせられたんだけど……ほとぼりが冷めると、そのまますぐ元に戻りました(笑)」

 さらにマキさんはテレビなどにも“現役早大生ゲイボーイ”として出演するなどしたため、実家から「もう帰ってくるな」と勘当されてしまったが、学校ではすべて女装で通し、7年かけて早稲田大学を卒業した。

 時は1984年。日本は未曽有の好景気であるバブル時代へと突入する前夜だった。