車浮代さん(60)は、誰にも負けない“蔦重(蔦屋重三郎)”推しだ。今年の大河ドラマの主人公が蔦屋重三郎ということもあり、蔦重関係の本をこれまでに7冊、今年2月にも1冊出す。それも、それぞれの本で趣向が違い、多角的に蔦重の魅力を浮き上がらせている。巷には江戸時代の研究本、歴史小説などあまたあるが、エンターテインメントで読ませながら、蔦重と江戸への愛を熱く感じさせるのは浮代さんの著書がピカイチ。
蔦重と周辺の浮世絵師や戯作者たちだけでなく、当時の食文化、庶民の暮らしも地道に調べて著してきた。今回の大河ドラマは、戦ではなく江戸の市井の人々の生活が描かれ、浮代さんが愛する江戸文化に衆目を集めるときが、ようやくやってきた!
ガールズバンドにアートディレクター。時代の先端をいった娘時代

浮代さんの肩書は、時代小説家と江戸料理文化研究家の2つ。「うきよの台所」という江戸時代風のキッチンスタジオも設えて、江戸料理のレシピを再現し、本も出している。
江戸にどっぷりハマっている浮代さんだが、実は生まれも育ちも大阪だ。江戸に行き着くまでに、紆余曲折の歴史があった。
浮代さんは1964年、高度成長期の大阪で生まれ、国語と美術が得意な少女だった。
「両親共働きの鍵っ子だったので、2歳年下の弟と隣家に預かってもらい、家の中で本を読んだり、絵を描いたりしていました。本や漫画は好きに買わせてくれたんです。初めて小説を書いたのは小学5年生のとき。空想少女だったんですね」
と浮代さん。浮代さんが大学に進学するころの日本は景気がよく、活気にあふれていた。書籍『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになり、斬新なパルコの看板や「不思議、大好き。」「おいしい生活」など百貨店の広告が話題を呼ぶ、そんな時代だった。
「アートディレクターやコピーライターなど、カタカナ職業が人気で、私も憧れました。美大に行きたいと父に話すと、“弟がいるのだから、おまえは短大で我慢しろ。四大なんて行き遅れるぞ”と。そういう時代でしたね。すると、初めて母が“この子の好きにさせてあげて!”と父に逆らってくれたんです。その父は2020年、コロナで亡くなりました」
美大卒業後は大阪の大手印刷会社に就職。アートディレクター、グラフィックデザイナーとして念願のカタカナ仕事に就く。

「在学中からガールズバンドを組み、就職しても続けていました。当時は土曜日が半ドンで、楽器を持って会社に行き、仕事終わりにスタジオに集まってオールナイトで演奏して、朝帰り。そんな生活をしていました」
浮代さんはベース担当。当時人気だったガールズバンド『プリンセス プリンセス』と『SHOW―YA』の間を目指したロックを演っていた。カーリーヘアに網タイツなどのハードなファッション。江戸時代とはまったく無縁の、時代の先端をいく現代っ子だった。しかし、もろもろの事情でバンドは解散。ぽっかりと心にあいた穴を埋めたのが、浮世絵だったのだ。
「バンドのメンバーとは今も定期的に会っていて、将来一人ぼっちになったら一緒に住もうねって言っています」
ある日、浮代さんが勤める会社のクライアントの美術館で、“大浮世絵展”が開催され、東京から摺師を呼んで、実演を行った。
「そこで摺師のおじいさんが喜多川歌麿の『ビードロを吹く女』を摺っていました。初めて聞く下町の江戸弁で、粋ってこういうことなんだ、としびれました」
摺師は、実演をしながら、絵の具やバレンをどう作るかなど、べらんめえ調で解説しながら、何色も重ねて摺り上げていった。1枚の紙を何枚もの版にのせても、一分の狂いもなくピタッと色が重なっていく。

「以前から超絶技巧が好きで。美術大学出身なので、浮世絵の仕組みはわかってはいたのですが1ミリの間に髪の毛3本を彫る技術や、それを目詰まりさせずに摺る技術に感服しました。江戸の当時は、版元という、今でいう“書店プラス出版社”が、企画を立てて、絵師に依頼して、彫師や摺師を決める。読み本の場合は、それを綴じて本にして、店頭で売る。そういうシステムがすでにできていたことにも、目から鱗でした」
自分がいる、今の印刷会社のシステムと同じだと感じ、浮世絵の世界に深くのめり込んでいく。
ちょうどそのころ、200人以上が参加する営業全体会議で浮代さんに発表が回ってきた。選んだテーマは、“浮世絵版画と印刷の関係”だった。
「バブル期ですから、みなさんいろいろな異業種交流会に入っていて、“その話面白いから、この会でもあの会でもやって”と言われまして。年上のおじさまたちに教えるのですから、下手なことは言えません。浮世絵だけでなく背景となる江戸時代についても猛勉強しました」