番組の中で、栄三郎青年(泰一郎に改名前の名前)が金沢歩兵連隊の重機関銃部隊に所属していたことがわかった。本土決戦が始まるかもしれないということで、千葉県の九十九里に向かうことになった。
父である七代林家正蔵に入門
「列車で向かったのですが、何かを隠すように片側だけカーテンが閉じられていた。大空襲によって焼け野原になった東京が見えないように……士気が下がらないようにしていたんですね」
九十九里に着くと、栄三郎青年はひたすら塹壕とトンネルを造らされた。少し前に行われた「硫黄島の戦い」では、18キロにも及ぶ地下壕が掘られていたが、九十九里の海岸線にも同様の地下壕を造ろうというわけである。
「三八式歩兵銃が支給されたものの、一小隊に一丁。しかも、弾は8発だけ。支給されるご飯も、家畜のエサ。近くの農家が見かねて、ジャガイモをくれたそうです」
絶望的状況─。「来たるべきときが来たら肉弾特攻せよ」。上官から冷たく告げられると、掘り進める塹壕の中で、死を待つ以外に選択肢はなかった。
「“神風特攻隊”と呼ばれた海軍の特攻隊と違って、父が属していた陸軍の特攻隊は海岸線に上陸してきた敵兵に向かって、爆弾を抱えて自爆するという役割でした。『海軍がうらやましい』と漏らす兵士もいたといいます。愚かな話ですよね」
1945年、栄三郎青年とは異なる形で、戦争の悲惨さに直面していた女性がいた。3月9日夜から翌日未明まで続いた東京大空襲によって、父、母、祖母、兄弟ら6人の家族を失い戦争孤児となった、後に初代林家三平の妻となる海老名香葉子さんだ。
「父とは違い、母は戦争の悲惨さを僕たち家族に伝える人でした。毎年3月9日になると、母の家族を含め大勢の人が亡くなった中和小学校、弥勒寺、被服廠(跡地)へ行って手を合わせ、最後に天丼を食べて帰るというのが、わが家の習わしでした」
香葉子さんは、疎開先の沼津にいたため大空襲を免れることができた。東京の空が真っ赤に焼ける光景を、当時小学5年生だった彼女は、沼津の山から見つめていた。
4日後、一人生き残ったすぐ上の兄・喜三郎さんが沼津を訪れ、事実を伝えたという。香葉子さんの胸中は想像を絶する。
栄三郎青年は塹壕の中で、香葉子さんは新たな疎開先である石川県穴水町で、8月15日の終戦を知った。
復員した栄三郎青年は、父である七代林家正蔵に入門し、東宝名人会で「林家三平」と名乗るようになる。一方、戦争孤児となった香葉子さんは家族の幻影を求め、上京を決意する。