香葉子さんの実家は、東京・本所にある「竿忠」という明治から続く伝統技法を受け継ぐ、釣竿師の家だった。店には名の通った有名人も通い、歌舞伎役者、落語家、講釈師らが出入りしていたという。
父と母は戦争によって巡り合った
だが、久しぶりに訪れた生家は、焼け跡に金庫が立っているだけ。その後、親戚、知人の家を転々とする生活が続くが、下町の風に後ろ髪を引かれた。しばらくして、「竿忠」を訪れると、小さな立札を見つける。
《金馬来る、連絡乞う》
戦前、店に足しげく通っていた釣り好きの落語家・三遊亭金馬師匠からのメッセージだった。金馬師匠を訪ねると、「竿忠の娘が生きていたのか」と歓迎された。
「自分の娘のようにかわいがってくれた」。そう香葉子さんは、著書『ことしの牡丹はよい牡丹』の中で振り返っている。このとき、金馬師匠のもとに稽古に来ていたのが、初代林家三平だった。
「皮肉なもので、父と母は戦争によって巡り合った」
まるで初代が乗り移ったかのように、頭をかきながら三平さんが微苦笑する。
「父は、まったく戦争のことを語らなかったですが、母に対しては、『みんなの前で語んなさい』と後押ししていました。『戦災孤児である香葉子だからこそ伝えられることがある』って」
子ども心に三平さんが覚えていることがあるという。
「3月9日に中和小学校で手を合わせていると、『ここで何かあったんですか?』と尋ねてきた人がいました。まだ戦争から30年くらいしかたっていないのに風化していくんですね」
広島の原爆ドーム、長崎の平和祈念像、沖縄のひめゆりの塔など、地方の都市には戦争で命を奪われた一般市民のための供養の場がある。しかし、東京にはなかった。
一夜にして、死者約10万人、罹災者約100万人以上ともいわれる甚大な戦災にもかかわらず、である。
2005年、戦後から60年たって、東京大空襲の犠牲者を追悼する2つの碑が建てられた。一つは、寛永寺敷地内の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」、もう一つが上野公園内の記念母子像「時忘れじの塔」。
どちらも私財を投じ、香葉子さんが有志の協力を得ながら、個人で建立したものだった。
「生涯の、悲願でしたから。絶対に無理だといわれていたんです。だから、まるで奇跡が起きたみたいで」─。