明日、死ぬかもしれないというのに、足の引っ張り合いは日常茶飯事だった。たばこ一本をめぐって、殴り合いになった。
死ぬ間際まで芸人であり続けた
「底辺の戦争があった。父は、その最中にいた。生前、父は私たち家族に、『明るく、元気に、一生懸命』という言葉を残して旅立ちましたが、戦争で『暗く、弱く、適当』な経験を嫌というほど味わったから、真逆の価値観を見いだしたんでしょう」
50代半ばで早世した初代林家三平は、最期のとき、混濁する意識の中で、こう答えたという。
医師「しっかりしてください。あなたのお名前は?」
三平「加山雄三です」
死ぬ間際まで、芸人であり続けた。初代を敬愛し続けた立川談志は、「落語とは業の肯定である」と説いたが、初代林家三平はその体現者に違いない。
「二代目を継いだ私は、父の生きざまと母の思いを伝えていかないといけない。当時を生きた人が少なくなっても、戦争の悲惨さを伝えていくことはできます。昔であれば、『東京大空襲』を調べようと思ったら図書館に行かなければいけなかったけど、今は関心さえあればすぐに調べられる。だからこそ、あの時代、日本で起こったことを当時の言葉で伝えていかなければいけないと思うんですね」
現在、三平さんは父が亡くなった年齢─54歳になった。果たすべき役割は大きい。初代を思わせる、人懐っこい笑顔で襟を正した。
林家三平と海老名家の年表
1925年(大正14年)
11月30日 初代・林家三平誕生。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸で、七代目柳家小三治(後の七代目林家正蔵)の長男、海老名栄三郎として誕生。
1933年(昭和8年)
10月6日 香葉子さん誕生。東京市本所区竪川町(現在の東京都墨田区立川3丁目)で、釣り竿の名匠「竿忠」の家に、中根嘉代子(本名)として誕生。祖母、父、母、3人の兄、そして8歳離れた弟との8人家族で、にぎやかに暮らしていた。
1938年(昭和13年)
栄三郎、旧制明治中学入学。
1939年(昭和14年)
栄三郎、同人誌『黎明』を作る。友人とともに芸大教授にバイオリンを師事する。
1940年(昭和15年)ごろ
日本が戦争に突入し、香葉子さんの家族の生活も戦争の影響を受け始めるように。
1941年(昭和16年)
12月8日 太平洋戦争が開戦。ラジオ放送を聴いた香葉子さんの兄たちは、「バンザイ!」と声を張り上げたという。