1943年(昭和18年)
栄三郎、旧制明治中学卒業後、明治大学商学部入学。
1944年(昭和19年)
3月 栄三郎、出征。猿田駐屯工兵隊陸軍歩兵兵長に。
6月 香葉子さんの母方の伯父(母の兄)がニューギニアで戦死したことが知らされる。

「どんなときでも笑顔でいるのよ」

7月 戦火が激しくなる中、静岡県沼津市の叔母の家へ学童疎開。疎開の際、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、どんなときでも笑顔でいるのよ」という励ましの言葉を受ける。

1945年(昭和20年)
3月 栄三郎、本土決戦部隊として肉弾特攻を命じられる。
3月10日 東京大空襲が発生。香葉子さんは東京にいた父、母、祖母、長兄、次兄、弟の家族6人を亡くす。その4日後、生き残った三兄の喜三郎さんが香葉子さんの沼津の疎開先を訪ね、家族の死を伝える。香葉子さんは11歳で戦争孤児となる。
5月25日 B29空襲で根岸の家が被災。
6月 香葉子さん、疎開先の叔母家族と共に石川県穴水町に移り住む。
8月15日 終戦。
10月 栄三郎、復員。香葉子さん、東京へ戻るも、焼け野原になった街を見て愕然とする。その後、親戚の家を転々としながら苦しい日々を過ごす。

1946年(昭和21年)
2月 栄三郎、東宝専属であった父・正蔵に入門し、東宝名人会の前座となる。父の前座名である「柳家三平」をもらい、「林家三平」と名づけられ、この名を生涯名乗り続ける。
4月 初代三平、父親の独演会で初高座を務める。

1947年(昭和22年)
秋ごろ 東宝名人会において二つ目に昇進。

1949年(昭和24年)
10月26日 父・正蔵が54歳で死去。
11月20日 妹・千恵が20歳で死去。
初代三平、父の死を機に本名を泰一郎と改名。かつて父の弟子であった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移り、落語協会に所属し改めて前座からやり直す。

1950年(昭和25年)
香葉子さん16歳。生前父と親交のあった三代目三遊亭金馬に引き取られ、世話になるように。

1951年(昭和26年)
3月 初代三平、再び二つ目に昇進。
1952年(昭和27年)
三遊亭金馬の家を訪れた初代三平の母が香葉子さんを気に入ったことがきっかけで、初代三平と香葉子さん結婚。
初代三平は26歳、香葉子さんは18歳だった。
1953年(昭和28年)
2月14日 長女・美どりさんが誕生。

1954年(昭和29年)
海老名家、電話を設ける。
初代三平、ラジオ番組『浪曲学校』(文化放送)の司会に抜擢される。

1955年(昭和30年)
海老名家、東芝10インチのテレビを買う。
初代三平、テレビ番組『新人落語会』(KRテレビ※現在のTBS)の司会者に。その後、文化放送、ニッポン放送と、続々レギュラーが決まる。初代三平、テレビの普及とともに落語界の異端児としてブームを巻き起こし、「テレビ時代の申し子」「爆笑王」として一躍スターに。