1957年(昭和32年)
テイチクから石原裕次郎、三波春夫、林家三平の三羽ガラスでデビュー。
10月 初代三平、二つ目の身分のまま、上野鈴本演芸場で主任(トリ)を務めるという異例の活躍を見せる。
11月 初代三平、松竹映画『恋して愛して喧嘩して』で映画初出演。
神風タレント第1号と呼ばれるように
1958年(昭和33年)
2月 林家こん平、15歳で入門。
10月 初代三平、真打に昇進。真打披露興行はKRテレビで生中継され、この際も「林家三平」の名を貫く。その後6か所の演芸場で10日間ずつの披露公演を行う。これを機に、週刊誌誌上にて妻子がいたことも公表した。
1960年(昭和35年)
初代三平、その人気ぶりから「神風タレント第1号」と呼ばれるようになる。初代三平、正月の3が日でテレビ・ラジオ出演が108回。
1月17日 次女・泰葉さんが誕生。
1962年(昭和37年)
12月1日 長男・泰孝(後の九代林家正蔵)が誕生。
1965年(昭和40年)
初代三平、『踊って歌って大合戦』(日本テレビ系)の司会を務める。第1回の視聴率は30.6%。
1967年(昭和42年)
4月 海老名家、家を新築。内弟子を含め23人の大所帯に。
1968年(昭和43年)
初代三平、落語協会理事に就任。
1970年(昭和45年)
12月11日 次男・泰助(後の二代林家三平)が誕生。
1972年(昭和47年)
香葉子さん(38歳)が心筋梗塞で倒れて入院。夫の初代三平が多忙な中でも毎日見舞いに来てくれたことに優しさを感じ、噺家としての夫の出世を支えることが自身の生きがいとなる。
1978年(昭和53年)
5月 落語協会分裂騒動が発生し、師匠・圓蔵が新団体への参加を表明。しかし、初代三平は新団体への移籍を拒否。圓蔵の脱会撤回を説得して、協会の危機を阻止する立役者となる。
1979年(昭和54年)
1月16日 初代三平、脳溢血で倒れ、東京逓信病院に入院。1週間の昏睡の後、右半身麻痺と言語障害が生じる。
10月1日 初代三平、壮絶なリハビリを重ね、高座に復帰。
1980年(昭和55年)
9月7日 初代三平、上野鈴本演芸場での高座が最後の高座となる。
9月18日 初代三平、肝臓がんで再び東京逓信病院に入院。
9月20日 初代三平、家族や親族、一門が見守るなか、東京逓信病院で死去。享年54。香葉子さんは、30人の弟子を抱える林家一門の「おかみさん」として一門の存続を支え続けるように。
1981年(昭和56年)
一周忌追善興行が、「林家三平追善興行」として浅草演芸ホールで毎年恒例となる。
1985年(昭和60年)
香葉子さん、自身の戦争体験を基にした自叙伝的エッセー・児童文学『うしろの正面だあれ』を刊行。
1989年(平成元年)
11月 次男・泰助が大学在学中に林家こん平門下へ入門。