2005年に掲載された、週刊女性「人間ドキュメント」内で香葉子さんは、万感の思いを語っている。政治上、宗教上の理由から、東京都から頑なに拒否され続けたとも。
ここで海老名泰一郎は死んだ
「戦時中の写真を見ることさえ怖かった時期もありました。でも、そんな苦しさを乗り越えてでも、残していかなければいけないものがあると思ったんです。夫の亡き後、それが私の役割だと」(香葉子さん)
言葉だけでは伝わらないものがある。形にして、初めて残るものがある。91歳になった香葉子さんは、今も戦争の醜さを伝え続けている。
「『昭和偉人伝』の収録中、僕は実際に九十九里へ行き、1.5メートルほどの深さのタコツボ壕を、父と同じように掘ってみました。目を閉じて、何を感じていたのか想像してみた。そのとき、ここで海老名泰一郎は死んだのだとわかった」
初代林家三平は、1980年、肝臓がんによって54年の生涯を閉じる。「生まれてから20歳までは海老名栄三郎として生き、21歳から54歳までは林家三平として生きた」。そう三平さんは思索する。
「父は、おとなしい少年で、学生時代もフランス文学を愛し、シャンソンを聴くような青年だったそうです。『こんなおとなしい子は噺家には向いていない』とも言われていたと聞きます。海老名泰一郎は穴の中で戦死し、這い上がって林家三平として生きる決断をした。焼け野原の中で、それまでの自分とは違う、新しい自分を描かないと生きていけないと思ったんでしょうね」
落語家は、真打になったときなど区切りを迎えると、改名することが珍しくない。
父・正蔵の名を継ぐこともできた。だが、初代は頑として、生涯「林家三平」を名乗り続ける。名を変えなかったのは、「林家三平」として蘇ったことに対する矜持があったからかもしれない。
「終戦を迎えたとき、一度中身を天日干しにするくらいカラにした。戦後は、林家三平という新しい器にまったく違うものを入れていく作業だった。その覚悟は、すさまじいものだったと思います」
だからこそ、新しいメディアであるテレビに順応し、時代の寵児になりえたのではないか─。
「父は切り替えの達人でした。家に帰ってきて、お稲荷さんの前で手を叩くと、『イヤなことは忘れた!』って切り替えていた。開き直りともいえる(笑)」
初代の代名詞ともいえる「どうもすいません」は、落語を話している最中に言葉に詰まった際、「どうもすいません」とワンクッション入れて、場を和ませていたことに由来する。
噺家としてはあるまじき行為だが、いつしかそれを逆手に取って、ギャグにしてしまった。「開き直りにもほどがある」、そう三平さんは破顔する。
「父は誰かをばかにするような笑いは一切しませんでした。きっとそれは、戦争を通じて嫌というほど、人間の醜い部分を見てきたからだと思うんですね。まだご存命だった班長が教えてくれたのですが、『肉弾特攻せよ』と命じられたにもかかわらず、肝心の爆弾が届かない。ようやく届いたと思って箱を開けたら空っぽ。いいかげんすぎて、人の命を何だと思っているんだと呆れたそうです」