往年のリスナーが振り返るANN伝説
“失恋ソングの女王”とも称されるように“暗い”といったイメージがつきまとう中島だが、往年のファンAさんから言わせれば、それらは中島の一面に過ぎないという。
「私はニッポン放送の深夜ラジオ『オールナイトニッポン』でDJをしていた中島さんのトークでファンになりました。以前から歌手としての中島さんは知っていて“暗い曲を歌う人”という印象でしたが、ラジオの中島さんは明るくて豪快に笑う愉快なお姉さんといった感じでした。そのギャップに驚いて毎週ラジオを聴くようになったんです」
中島は1979年4月から1987年3月の約8年間、月曜の深夜1時から3時を担当。このころのオールナイトニッポンのパーソナリティーは、水曜日はタモリ、木曜日はビートたけしが務めるなど、当時の若者から熱狂的な支持を受けていた。
「思い出深いのは、中島さんとゲストの松山千春さん、松坂慶子さんの3人による、北海道の牧場を舞台にしたラジオドラマですかね。その回の中島さんは松山さんに惚れる三枚目の女性という役でした。爆笑しましたよ」(Aさん)
同じく中島のラジオの虜だったBさんも当時を振り返ってくれた。
「1981年に、ステージで歌っていた松田聖子さんが観客席から投げられた紙テープが目にあたってケガをするという騒動が報じられたのですが、中島さんはラジオでこの件に触れて“当たってもいい、痛くてもいい、私はカップ麺がほしい!”と熱弁したんです。よほどカップ麺が好きなのでしょうね。以降、中島さんのライブが終わると客席からステージにカップ麺が投げられるという文化ができました」
自ら収録音声を取り下げた出来事
リスナーとの一体感をつくっていた中島のDJぶりだが、広く支持されたのはそのエンターテインメント性だけではなかったようだ。
「番組の終盤とかに、シリアスな内容のハガキを読むのも定番でしたね。普段が楽しい放送だったから、おふざけなしの放送も印象深いです。
1985年8月12日の月曜日、お盆シーズンということで、中島さんはお休み。放送は事前に収録した中島さんの音声を流す予定だったのですが、この日の夕方に、群馬県の御巣鷹の尾根に日航機が墜落する事故が発生しました。後の放送で中島さんが語っていましたが“事前に収録しておいたとはいえ、こんな事故が起きた後、能天気な音声を流してはいけない”と思い、旅行先からニッポン放送に掛け合って、収録音声を取り下げたそうです。そのとき、被害者の方々とご家族を思って動く人なんだと思いました」(Bさん、以下同)
ラジオでハガキを読まれた一部のリスナーには、番組オリジナルグッズ「握手券」が贈呈されたという。
「私もハガキが選ばれて握手券を持っているんですが、まだ握手券を持っていないとき、北海道の空港で中島さんにお会いしたときにお願いしたら握手してもらえました。少し会話したら、私のハガキネームを認識してくれていましたし。ファン冥利に尽きます」