ディレクターが明かす“カリスマDJ”の舞台裏
歌だけでなくラジオでも存在感を発揮した中島。その舞台裏では何が行われていたのか。1985年から最終回までのディレクターを務めた入江たのし氏に話を聞いてみた。
「当時の私はニッポン放送に入ったばかりの新人でした。ディレクターという仕事は、番組で流す楽曲を選んだり、コーナーを存続させるかどうかの決断などいろいろありますが、一番はパーソナリティーに気持ちよく仕事をしてもらうことですから、構成作家さんと大量のハガキを選定するなど中島さんのサポートに力を入れていました」
生放送当日、中島は本番開始の1時間前にスタジオに到着し、一人で放送ブースに入って番組で読むハガキ選びに集中していたという。
「ブース内はガラス越しで外の部屋から見えるのですが、黙々と一人でハガキを選ぶ中島さんは鬼気迫るというか近寄りがたいオーラを放っていましたね。リスナーと真剣に向き合っていたんだと思います。それでも本番前に一度打ち合わせをしなくてはいけませんから、中島さんが面白いハガキを読んだりして、くすっと笑った瞬間とかにお声がけして、ハガキ選びを中断させていました。読まれなかったハガキも全部持ち帰っていましたね。自宅とかで目を通していたんだと思います」(入江氏、以下同)
最終回で1000人のリスナーが駆けつけた
人気番組だったが、1987年2月、中島サイドからの申し出により1か月後に終了することが決まってしまう。
「ラジオは毎週月曜日の深夜に生放送ですからね。ライブツアーなどの音楽活動と両立するのが難しくなってきたんだと思います」
最終回の当日、東京・有楽町にあるニッポン放送の前には深夜過ぎにもかかわらず、中島のリスナーが1000人以上集結。中島はリスナーたちに感謝のメッセージを述べ、局の玄関から出迎えのリムジンまで続くレッドカーペットを歩き、その場を後にして大団円を迎えたのだった。
「大勢のリスナーが集まりましたが、当日は混乱もなく。さすが中島さんのファンは礼儀正しかったですよ。後日、ラジオのスタッフが集まって打ち上げをしましたが、中島さんはしんみりとせず、自分の身の回りに起きたことなどを話したりと、いたって普通でした。その後も中島さんとお会いすることもありましたが、オールナイトニッポンは特別な経験でしたね」