グレた中学時代。高校は退学し家出少女に─
中学に入ると、問題行動を繰り返すようになった。
「学校生活はうまくいきませんでしたね。わかりやすくグレて、途中から学校に行かなくなりました。練馬の公立学校だったんですが、両親ともに地方出身でしたので、方言を話さないように育てられました。
その結果、NHKのアナウンサーみたいな話し方になったんです。すると、『話し方が変だ』と言われ、いじめられるようになったんです。ハブられたり、放課後に呼び出されたりしました。そこで、引きこもりの方向ではなく、グレました」
中学のときは流行りものに飛びついた。フリッパーズ・ギターの曲を聴きながら、ギャル雑誌『egg』を読むというアンビバレントさ。ただ、人間関係も学校生活もうまくいかなかったという。中学ではどんな生活だったのか。
「タバコとか……。ただ、違法薬物はやらなかったし、お酒も飲みませんでした。アレルギーなので。クラブキッズでしたが、このころはまだ家出はしていなくて、深夜遅くになっても帰宅していました。学校には、中学の途中からほとんど行っていません」
高校に入ったものの、すぐに退学になった。
「『高校くらいは行かないと』と思い、受験しました。とにかく家を出たかった。全寮制の高校も考えましたが、規則が厳しい。だから、普通の私立に行きました。制服が規定のものであれば、金髪にしようが、ガングロにしようがなんでもよかったんです。でも、このころは荒れ狂っていましたので、退学になりました。停学、停学、停学、無期停学みたいな……」
'90年代後半、渋谷をメインに流行ったヤマンバギャルに石田さんもなっていた。日焼けサロンで肌を焼いて、真っ青のアイシャドウ、派手な髪形、厚底ブーツを履いた少女たちの1人だ。
「遊び場のメインは渋谷でした。当時、ヤンキーは池袋、ギャルは渋谷でしたから。『egg』やストニュー(『東京ストリートニュース!』)にも載ったけど、読者モデルにはなりませんでした。だって、定期的に連絡が取れないと読モにはなれないんですよ。私は当時、家出少女だったので(笑)」
また、女子高生ブーム、援助交際ブームの時期でもあった。
「エンコーしている友達はいました。好きなものを買えていたので、シンプルにお金が入るのは羨ましくも思っていました。『プリクラ20枚連続で撮れていいな』とか。でも、私はエンコーができませんでした。高校からこの顔、老け顔なんです。おじさんに人気がない。靴下くらいは売れるかな?と思っていたんですが、ブルセラで売れないんです」
当時、援助交際をしていた女の子の心情としては、どのくらい高く売れるのか、ということで自分の価値を測っていたということもあったが、石田さんはどうだったのか。
「彼氏以外と性的関係を持ったらフルボッコという感じでした。自分自身の“性的な商品価値”は感じていませんでした。老け顔でオジ受けも悪かったし自分に商品価値は感じていなかったですね」