「恩師の死の原因」だと指をさされたことも

冬はマイナス30度になり、食べ物もなかなか手に入らなかったが、北の大地で育った日々が今の鈴木宗男の不屈の魂をつくり上げたといえる
冬はマイナス30度になり、食べ物もなかなか手に入らなかったが、北の大地で育った日々が今の鈴木宗男の不屈の魂をつくり上げたといえる
【写真】2019年8月に衆議院議員となった貴子と親子で登院する鈴木宗男

 '83年1月9日、札幌パークホテルの一室で、中川の遺体が見つかった。後日、「その原因は鈴木宗男にある」と中川の夫人が指摘するや、鈴木はヒールとしてマスコミに扱われるようになる。

 前年、自民党総裁選で敗北した中川は精神的に疲弊し、睡眠薬を服用するようになっていた。心身共に追いつめられていた。

「私ほど先生に尽くしてきた人間はいない。365日休まずに仕えてきた。13年間で休んだのは、女房と新婚旅行に出かけた3日間だけです。奥様からそのような汚名を着せられて、心底悲しかった」

1980年9月、中川一郎の秘書時代
1980年9月、中川一郎の秘書時代

 中川が亡くなったことで、次の衆議院選は、長男である中川昭一と、第1秘書として地元から大きな支持を集めていた鈴木が対決することは明らかだった。

 政界のご意見番とも呼ばれた、元自民党政調会長・亀井静香は、著書『永田町動物園』(講談社)の中で、鈴木についてこう記している。

《秘書時代の頑張りを見てきた俺は、宗男が後継として出馬するのは当然だと思っていた。しかし、“弔い合戦”において、自民党は昭一を公認した。
(中略)毀誉褒貶あるのが宗男という男だ。しかし、中川一郎先生に尽くした男だということは間違いない。滅私奉公とはあのことだ。宗男を持ち上げているわけではないが、あれほどの師弟関係を俺は他に知らない》

 バッシングに晒され、さらには自民党の公認もない。鈴木は出馬を躊躇した。

 ためらう背中を押したのが、今も鈴木を支え続ける典子夫人だった。

「女房も中川先生のもとで秘書として働いていた。明るい人ですから、中川先生も気に入っていて、私たちを指さして、『おまえたち一緒になれ』と言う。もちろん、女房は嫌がってましたよ(笑)。

 でも、先生は半年たっても、1年たっても、『一緒になれ』と言う。先生に尽くす姿を評価してくれたのか、彼女が結婚すると言ってくれました。政治家になれるかどうかもわからない人間によくついてきてくれたと思います」

 “恩師殺し”と罵られ、意気消沈する鈴木に、典子夫人はこう檄を飛ばした。

「一生、中川先生を死に追いやった男と呼ばれ続けますよ。勝ち負けじゃないんです。あなたは政治家になりたくて、中川先生の秘書になったのではないですか」

 鈴木は、無所属ながら出馬を決意する。1票でも多く獲得するために、北海道5区の隅々まで回った。当時の北海道5区の面積は、九州とほぼ同じ大きさ、日本の面積の9・5%を占める広大なエリアである。

 ほかの議員は1周しかしないところを2周した。これでもかというほど声を枯らした。結果、定員5人の中、4位で当選を勝ち取った。

 地獄から天国。子どものころの夢を、ついに叶えた。