情報操作で「疑惑の総合商社」だと言われて

「中川先生から教わったことは、“人には親切にすること”“困っている人の相談に乗ること”……たくさんあります。“頑張れば頑張った分、あるいは努力した分、必ず自分に返ってくる”とも言われました」

 亡き師匠の言葉を胸に、愚直に汗をかいた。あらためて自民党に入党すると、叩き上げながら'97年には、第2次橋本改造内閣にて初入閣(北海道・沖縄開発庁長官)。その後官房副長官、その2年後には小渕内閣で自由民主党総務局長(現在の選挙対策委員長、自民党四役)にまで上り詰めた。

「中川先生からは、『信念を持って堂々と筋を通しなさい』とも教えられた。政治家にとって最も大事なことの一つだと、私は思っている。しかし、信念を貫いたがゆえに、非難の的にされるとは、夢にも思っていなかった」

 小渕恵三から森喜朗へと首相が代わると、'01年に再び政権交代が起きた。小泉純一郎がその座を射止めると、鈴木に対する風向きが変わり始める。

最初の選挙のもよう。
最初の選挙のもよう。

「小泉さんは、地方を切り捨て、『強いものが善である』という新自由主義を掲げていた。私は、都会と地方、強い者と弱い者のバランスや公平性が重要だと抵抗した」

 当時の小泉純一郎の人気はすさまじいものがあった。発足時の支持率は、毎日新聞の世論調査では歴代最高の85%である。

 この人気にあやかって、小泉政権は外務大臣に、同じく国民人気の高い田中眞紀子を登用。同氏は、外務省を「伏魔殿」と呼ぶなど、外務官僚と激しく対立した。

「そこで外務省に担ぎ出されたのが私です。私も彼女の北方領土問題を含めた外交に対する認識、言動の浅はかさに閉口していたので、今まで築いてきた諸外国との関係性が揺らぐと思った。だから、私は彼女を厳しく追及した」

 ところが、田中は田中で、アフガニスタン復興支援会議へのNGO不参加の背景には、「鈴木が外務省に圧力をかけていた」と応戦。2人の対決は激化し、小泉は“喧嘩両成敗”と称し、田中を更迭、鈴木を衆院議院運営委員長から辞任させた。

「国民人気の高かった田中眞紀子さんを更迭に追いやった男として、私はお茶の間の悪代官になっていた(苦笑)。加えて、外務省の内部を知りすぎた男でもあった。お役御免ということで、追放しようというわけです」

 これを機に、外務省や北海道開発局などを舞台に、数々の利権絡みの疑惑─“鈴木宗男事件”へと発展していく。中でも、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」不正入札疑惑は、世間の注目を集め、マスコミは「友好の家」を「ムネオハウス」と命名するなど、面白おかしくはやし立てた。

 鈴木宗男の悪口を書けば、ワイドショーは視聴率を、週刊誌は部数を伸ばすことができたからだ。

 鈴木は、「受け取った金銭や献金は正規の政治活動資金であり、決して違法なものではない」と徹底抗戦した。しかし、2002年、逮捕、起訴される。

「政治資金として届け出をしていた400万円の受領が、検察によって“斡旋収賄罪”とみなされ、私は逮捕された。繰り返しますが、正規の手続きを踏んだクリーンなお金です」

 鈴木に対して、「あなたは疑惑の総合商社だ!」と言い放った辻元清美は、後年、国会でこう答弁している。

「私が指摘した点は裁判で出ておらず、確証がなかった点は認めざるを得ない。そのような言葉遣いをしたことを今では反省している」─。

 “鈴木宗男事件”とは、いったい何だったのか。鈴木は「冤罪」「国策捜査」だと主張する。関連する書籍は多数存在し、読者自身が真実を見極めればいいと思う。ただ言えることは、鈴木は勾留され、その後、刑務所へ収監されたということである。