一方、スターである力道山は女性の噂が絶えなかった。プロポーズを受けてから公表するまで「半年待ってくれ」と言われたとき、「女性関係を整理したいんだな」と敬子さんは勘づいたという。

「医療ミスが原因で亡くなったのだと思っています」

あとから、同じ日本航空の先輩とも付き合っていたことがわかりましたが、結婚してからは疑わしい女性関係はまったくありませんでした

 また力道山は結婚していないものの3人の子どもがいて、敬子さんは新しいママとして子どもの面倒を見ることになった。

 結婚が決まったとき、料理は一切できなかった敬子さんだったが、力道山は「料理なんかしなくていい。シェフを呼ぶから味だけ覚えてチェックしてくれ」と言ったそうだ。

 家に家政婦は3人いて、当時としては珍しいGE(ゼネラル・エレクトリック)の家電製品をそろえ、ロールス・ロイスも所有していた。

アメリカで稼いだドルは日本に現金で持ち帰ることができなかったため、物品にかえて日本に送っていたんです

 住まいは「リキ・アパート」と呼ばれる赤坂の集合住宅の最上階で、階下には芸能人が多く住んでいた。プールもあり、力道山が所有・経営していた。

夫は門下の選手たちに『おまえたちはあと10年もすれば身体を壊して働けなくなる。一生面倒を見られるのは俺しかいない』と言って、彼らの第二の人生も見据えてホテルやゴルフ場などの事業を幅広く展開していました。ビジネスマンでもあったんです

 プロレスの試合をテレビで放映する際、リング周辺に広告看板を並べるシステムを最初に提案したのも力道山だった。当時のワンシーズンで3000万〜4000万円という巨額の広告収入があったという。

あと20年もしたら日本中に高速道路ができて、マンションが立ち並ぶ。子どもたちも元気になると語っていて、先見の明がある人でした

 そんな力道山が赤坂のナイトクラブで刺されたのは、1963年12月8日のことだ。暴力団組員と口論になり、腹部を刺されたが、当初は大きなケガではないと思われていた。

夫は試合で身体を酷使していたため内臓はボロボロで、医師からは手術後はゆっくり休むよう言われていました。本人も『ハワイで1年くらいのんびりしたい。もうプロレスをやるつもりはない』と話していたんです

 しかし、その願いはかなわず、事件から1週間後、力道山は39歳の若さでこの世を去った。

腹膜炎を起こしたというのが医師の説明でしたが、麻酔の投与量が通常の2倍だったことが後にわかりました。私は医療ミスが原因で亡くなったのだと思っています

 力道山は事業の先行投資のために、莫大な借金も抱えていた。22歳で夫を亡くした敬子さんは、相続放棄をしなかったため、遺産とともに30億円もの負債を抱えることに。

 魑魅魍魎がはびこるプロレスの世界の人々に翻弄されながらも借金を20年かけて返済し、再婚することなく子どもたちを育て上げた。

 現在84歳になった敬子さんは、LINEを慣れた手つきで使いこなし、大好きなお酒を毎晩楽しみ、元気はつらつだ。今年、人工股関節の手術をしたが、東京・水道橋にある新日本プロレスのオフィシャルショップ「闘魂SHOP」で店番をすることもある。