明治44年秋、倉敷紡績の「文化祭」が開かれることになった。すてらはそこで「小説」を発表し、訪れた人たちに読んでもらおうと考えた。完成した小説が『回転木馬』。惹かれ合う男女が雨の中で別れる悲恋の物語だ。

作家になる前に経験したことが生かされている

 最初の読者となった庶務課の主任は、すてらに言う。

《雨がそぼ降る回転木馬もすてきじゃけど……いつか書いてください。晴れの日の木馬たちの物語を》と。

 この小説は孫三郎夫妻の目に留まり、孫三郎から《でーれえ『ええもん』を読ませてもろうた》と言われる。以来、夫妻はすてらを励まし、美術や評論も載っている『白樺』を貸してくれたりした。すてらは社内誌に小説の連載もするようになるのだった。

 その後、20歳を目前に倉敷紡績を退職し、故郷へ帰って住み込みの女中として働くことになったすてら。その家は吝嗇(りんしょく)で、休みもなく酷使される日々。それでも、すてらの“書く”ことへの情熱は冷めなかった。

 原田さんも、絵や漫画を描いて、架空の話を想像するのが好きな子どもだったそうだ。

いつも手を動かして何か創作していました。しょっちゅう妄想が爆発して、想像の世界に遊ぶということを楽しんでいました(笑)

 退職したときに孫三郎から贈られた『白樺』だけがすてらの心の支えに。その『白樺』は、ゴッホの口絵と画評が載っているゴッホの特集号だった。その中でも、どっしりとした女性の絵と武者小路実篤のゴッホ評が心に響いた。《私も書かなければ。ゴッホが絵を描いたように》と思い定める。

 大学では日本文学を専攻した原田さんだが、アートの仕事がしたくて、開設準備中の美術館に飛び込み、就職。伊藤忠商事に勤めたあと森美術館の設立準備に加わり、ニューヨーク近代美術館に派遣される。もっと深く美術に携わりたいという思いが、原田さんを行動に駆り立てた。

作家としてデビューしたのは、44歳のとき。かなり遠回りをしました。作家になる前に経験したことが、結果的に作家になって生かされていますから、よかったと思います

 美術関係の仕事をしていたことは、“アート小説”に結実したという。その第1作『楽園のカンヴァス』は、大原美術館の展示室から物語が始まるが、倉敷は原田さんにとって特別な場所のようだ。

10歳のときに大原美術館を訪れ、初めて実際の名作の数々を見ました。その体験が、私の礎をつくってくれたと思っています。今回の小説は、倉敷という場所を掘り下げ、ここを舞台に一人の少女が周りの人に支援されながら、大きく羽ばたいていく物語です