「ここから出なければ、自分はダメになる」

 “ここから出なければ、自分はダメになる”という切実な思いがあったという。

「“大学は文学部に行きたい。そして下宿したい”と言ったら、父親に反対されました。“小田原から東京の大学に通える。まあ医学部なら話は別だが”と言われたんです。調べると、医学部は6年で、モラトリアム期間が長い。だから医学部に行きたいと思ったんです。医者になりたいからではなかった」

 そんな理由から人気精神科医が誕生したとは。しかも、当時の松本さんの救いは文学だったという。

「高2のとき、よく行っていたのは市立図書館でした」

 その図書館は当時、実家から見える小田原城址公園内にあった。

 図書館では文学や哲学書を読んだ。そこで精神科医の加賀乙彦の小説『フランドルの冬』に出合う。それが精神科医を目指すきっかけだった。

「全編にわたって憂鬱な感じなんです。精神科医なら陰キャでもできるなと思ったんです。俺でもできるんじゃないか。精神科医は医者っぽくないみたいだし、という発想があった気がします(笑)」

 高校卒業後、佐賀医科大学に進学した。かつての首相、田中角栄は一県一医大構想を打ち出した。医学部がない県には単科の医科大をつくり、その流れでできた大学だった。

「僕は数学や物理、化学が苦手だったんです。佐賀医科大は独自に面白い学生を集めようとしていたのだと思いますが、当時の2次試験が、長時間かけた小論文だったんです。だから文系の人でも入りやすいところだったんですよね」

 大学ではどんな生活を送ったのか。

「少なくとも僕らの学年までは、出席を取らない、留年生がいない、試験一発勝負で、10年の間に単位を全部取ればオッケーでした。だから僕も本当にあのころ、授業に出なかった」

 それでも6年で卒業できた。

「本をずいぶん読めた。時代はバブル期だったんだけど、田舎なんでそんなバブルチックな遊びもできない。当時はレンタルビデオが華やかなりしころで、いろんな映画を見ました」

 運命の出会いも果たす。医学部の同級生で、実習で同じグループだった、のちに妻となる女性と出会ったのだ。

「当時彼女だった妻が、いろいろと教えてくれたから落としがちだった単位も途中から落とさなかった。医者になれたのは妻のおかげでもありますね」

 熊本出身の彼女と同棲していた松本さん。卒業後に住むところはお互いの第2希望で横浜に決まり、横浜市立大の研修医として働いた。

「このころ、精神病理学や精神分析に関心を持っていたんです。そのため、横浜市立大で脳外科、神経内科、精神科、救命救急センターで、それぞれ半年ずつ研修しました」