じゃんけんで決まった「依存症医師」
松本さんは当初、なんでもこなす一般的な精神科医になろうと考え、チャンスがあったら開業でもしようと思っていた。その後、1年間、総合病院精神科での勤務を経て赴任したのが、神奈川県立精神医療センターだった。
「希望で行ったんです。定年まではここにいたいなと思っていました。この病院は一般の精神科と、精神科救急、つまり、外で暴れて警察官に保護されてくるような人たちを診るところでした」
依存症の担当医が辞めたとき、後任はなかなか決まらなかった。依存症治療は精神科医の間でも人気がない分野だったからだ。
「誰か行ってくれないか」
医局の空気は重かったという。若手医師たちの間に沈黙が流れる。そのとき松本さんが重い口を開いた。
「じゃんけんで決めませんか」
軽い冗談のつもりだった。しかし─負けたのは自分だった。
「あのときは正直、自分のキャリアは終わったと思いました(笑)」
しかし、その偶然が、日本の依存症医療を牽引する精神科医を生むことになる。
「司法関係や自殺関係の仕事をしたりもしたので、若干外れた時期もあったんですが、最終的には依存症の臨床に生かすため、という意識があったのは事実です。丁寧に臨床の研修を積んで、依存症についてもわかった気になっていたんです」
依存症の病院では、これまで学んだことは何も通用せず、無力感にとらわれた。健康被害について説教や叱責をしても無駄だった。患者に薬物をやめさせることができない。担当していた患者が小田原城の天守閣から飛び降り自殺をしてしまったこともあった。
そんなときにモチベーションを高めた出合いがあった。薬物依存から回復し、社会復帰を目指す民間のリハビリ施設「ダルク」だ。依存症から回復した当事者が、新たな利用者をサポートする現場を見てヒントをつかんだという。
「頼まれて、嘱託医になったんです。それがいい体験でした。彼らに引っ張り回されていろいろなところへ行って、当事者の言葉を聞くチャンスが増え、『医者より当事者のほうが治せるじゃん』って思いました」
そのころ、松本さんの臨床に大きな影響を与える出来事があった。
“夜回り先生”として知られる水谷修さんとの出会いだ。水谷さんは、夜の繁華街を歩きながら行き場のない若者に声をかけ、支援を続けてきた教育者である。
ある朝のことだった。病院の玄関には、開院前から水谷さんの姿があった。その後ろには、数人の少年少女が立っている。松本さんはその光景をよく覚えているという。
「水谷先生が、僕を見るなりこう言うんです。『松本先生、よろしくお願いします!』って」
連れてこられた子どもたちは、薬物だけが問題ではなかった。虐待を受けている子。自殺願望が強い子。怒りが爆発すると手がつけられない子。年齢を偽って売春をしていた子─。松本さんが医学部や大学病院で学んだ精神医学では、教えられなかった現実だった。
「この子たちの治療は、それまで自分が教わってきた精神医学と全然違うものでした」
しかし同時に、松本さんは気づいた。目の前にいるのは、診断名ではなく生身の人生を抱えた人たちだということに。その経験は、松本さんの依存症医療に対する考え方を大きく変えていった。
「依存症の人って、失敗すると“全部終わり”だと思ってしまうんです。でも人生ってそんなに単純じゃない。何度失敗しても、またやり直せるようにするのが医療だと思っています」


















