1年目の秋にミスを犯す

 '90年、初任地は地元の熊本放送局。土地勘のある場所でよかったのだが、1年目の秋にミスを犯す。夜9時55分からの5分間、ラジオの天気予報を読む仕事を任された。ところが違う日の原稿を読むなどひどい出来。誰も聴いていないだろうと高をくくっていたら放送後に外線が入った。

「僕が読んだ天気予報を聴いていた女性からでした。その方は目が不自由で、ラジオ天気予報を参考に翌日の予定を決めているのに、今の天気予報はひどかった、と。カミナリに打たれた気持ちでした。放送とは1度きり、そのときに100%伝えることができなければ意味がないのだ─そういう教訓を得ました」

 とにかくいろいろなテーマを取材した。ゴルフ場の建設問題、産業廃棄物の不法投棄問題、災害……。取材して5分ほどの番組にまとめる仕事を繰り返した。さながら野球の“千本ノック”のようで鍛えられたと振り返る。

 その後の人生を決定づけたのは、'95年の阪神・淡路大震災。熊本に4年間いたあと四国・松山放送局に異動して1年目だった。地震があったその日に震源地である淡路島に入った。その体験が災害報道を考えるきっかけになる。

「報道は、警察や消防や自衛隊、ボランティアのみなさんのように、現場で直接人々を助けられるわけではないけど、報道で人を救うことはできないのだろうかと考え始めました」

 積極的な取材マインドが認められたのか、'97年、東京のアナウンス室に配属される。

 最初は『おはよう日本』の3分間の中継リポートを担当した。早朝なので取材先との交渉が大変だった。

「山一証券など大きな金融機関が経営破綻したとき、“格付け会社”がよく登場しましたが、朝6時にS&Pという会社に行って、1人しか出社していないところでリポートさせていただきました。

 国際宇宙ステーションに、宇宙船内で実験ができる施設『きぼう』ができたときは、防塵用の防護服を着て中継したこともあります。JAXAに朝5時に対応していただけますか、とお願いしたらギョッとされましたけどね(笑)」

 隔週の担当だったので、担当の週は連日泊まり込み。それが1年半続いた。

 その頑張りが認められ、'99年、31歳のとき正午のニュースを土日だけ任されるようになる。それまでは40代以上のアナウンサーが担当していたことを考えると、抜擢である。周囲には大丈夫か? という雰囲気があった。