「伝わる言葉」「伝わる話し方」を求めて
武田さんの仕事を長年見てきた、前出の先輩アナの水谷さんによれば、若くして大きな仕事を任されるようになった要因の一つは、常に冷静で、正確なアナウンスを心がけてきたからだという。それは日常の努力の積み重ねだと。
「武田君が私に電話をかけてきたことがありました。落語家の立川談志さんが亡くなった原稿を読むんだけど、談志さんだけでなくお弟子さんの名前のアクセントをチェックしてほしいと。私が芸能の世界に多少明るいことを知ってのことなんですが、彼の正確なアナウンスの裏側を見た気がしました」
開票速報で、政党の幹部にインタビューをするときも、武田さんはひるまず聞くべきことを質問していたと、水谷さんは振り返る。
そんな肝が据わった武田さんでも、'11年3月の東日本大震災は次元が違った。
地震発生直後から、ずっとスタジオで地震の番組を担当した。津波に町がのみ込まれたことを伝えたかと思えば、地震発生直後に、被災地の病院で赤ちゃんが生まれたことも伝えた。
ニュースを伝えながら、武田さんだけでなく、スタッフも泣きながら番組を作っていたという。
そのころの武田さんのことを妻・陽子さんは覚えている。
「家に帰れない状況が続いていましたね。疲れたという状態を超えたすごい疲弊のしかたでした。震災の現場を言葉にしなければいけないということは、精神的にもこたえたでしょうね。眠れないとも言っていました。
休みなしで放送していたので、相当喉に負担がかかったのだと思いますが、声帯を痛めて、声が出なくなっていました」
専門のクリニックで診察を受けたところ、話してはダメと言われた。しかしそれは難しいので、だましだましやっていたという。
そうした苦労が報われて、NHKの地震報道は一定の評価が得られた。しかし武田さんはそれを喜ぶ気にはまったくなれなかった。
実は、地震が起きたとき、「大丈夫だ、みんなできる」
と思っていたという。
というのも準備をしていたからだ。武田さんが2000年前後から自分用に作った、災害時のアナウンサー用マニュアルを、記者など他職種のマニュアルを参考にしながら何度もバージョンアップし、アナウンサー同士で共有し、練習を重ねていた。
また技術スタッフに依頼して、パソコン画面で地震の初動対応を練習できるシミュレータも作り、アナウンサーは自主練もしていた。そうした成果が発揮されると思っていたのだ。
「しかしおよそ2万人が亡くなったんですよ。今までの伝え方が間違っていたんじゃないかと思いました。情報を伝えることもそうですが、視聴者の危機感に訴えかけて、避難を呼びかけ、行動を促す情報提供が必要だと」
アナウンサーの有志や災害担当記者、テレビ・ラジオニュースの部署などの面々が集まり、アナウンスだけでなく、画面の見せ方などを多角的に議論を重ねた。それが'11年11月に完成した。
アナウンスでいえば、「今すぐ逃げること」という体言止めの、強い呼びかけはそのときにつくられた。また 避難所や公営住宅に移ってから体調を崩して亡くなるケースが多かったので、地震後のフェーズに合わせたアナウンスなども整えた。
武田さんは、インタビューの中で、何度も「伝わる言葉とは何か?」「伝わる話し方とは何か?」という言葉を口にしたが、その答えを探しながら、試行錯誤してきたのだ。


















