■夫の戦死の知らせ。そして教師へ

 希望が打ち砕かれたのは、終戦から1年近くがたった、1946(昭和21)年7月のこと。

「役場の人から戦死の知らせが届きました。必ず帰ってくると信じて待っていたので、そのときは、もうね……」

 そこまで話すと、目頭を押さえた。

【写真】ときに涙ぐみながら、終戦当時のことを語ってくれた
【写真】ときに涙ぐみながら、終戦当時のことを語ってくれた

 手紙が途絶えた1944(昭和19)年秋、終戦の1年近く前に、仁九郎さんはすでに亡くなっていたという。

「ニューギニアのジャングルの中で、戦病死したと聞かされました」

 遺骨は戻らなかった。白木の箱に、出征のときに切っていった爪を入れて納骨した。

 2人の幼い子どもを抱え、これからどう生きていけばいいのか、途方に暮れた。そんなツチヱさんに、義父母は身の振り方を選ばせてくれた。

 里に帰って再婚するか、夫の弟と結婚するか、再婚せずに婚家に残るか─。

「あの時代は、有無を言わさず子どもを婚家に取られ、実家に帰される嫁が珍しくなかったんです。だから、感謝しています。選ばせてくれたことに」

 結局、再婚せずにそのまま残ることを決めた。「勝彦と両親を頼むよ」─、出征前に夫と交わした約束を守りたかったからだ。

 教師になったのは、終戦から5年後、30歳のとき。

「戦後の食糧難は、米や野菜を作って乗り切りましたが、自給自足の生活では、お金にならない。勝彦も小学校に上がる年齢を迎え、お金が必要でした。だから、“私、勤めましょう”と」

 勤務先は、地元、糸島の前原(まえばる)小学校。実父のすすめで取った教員免許が役立った。

「それからはもう、一生懸命に励みました」

 いまでもツチヱさんは、教師になって初めて送り出した卒業生の名前を、名簿順にそらで言える。「アイタケシ、イノウエミノル、イノウエマサヒロ……」、途中で勝彦さんが、「お母さん、もうそのへんで」と止めたが、1クラス60人もの生徒の名前を、それもフルネームで─。

 どれだけ情熱を傾けていたかがわかる。そして、ツチヱさんがどれだけ生徒に慕われていたか。

 前原小学校時代の教え子で、現在も親交がある、宗久子さん(73)の言葉が物語る。

【写真】前原小学校時代の卒業生たちと(ツチヱさんの自宅で)。後列右端が宗久子さん
【写真】前原小学校時代の卒業生たちと(ツチヱさんの自宅で)。後列右端が宗久子さん

「大櫛先生は、わが子のように私たちを守り育ててくださいました。いまでも記憶に残っているのは、“1日にひとつ、よいことをしましょう”という教え。ゴミを拾ったり、トイレ掃除をしたりして、日記に書いたものです」

 教室には花挿しが置かれ、毎日、かわるがわる生徒が花を一輪、持ってきたという。

「戦後の殺伐とした時代に、先生は思いやりと感謝の心を育てようとしてくださったんですね。同窓会を開くと、先生に会いに、東京からも生徒が駆けつけるほどです。それは、私たちにとって、先生が人生の師でもあるからです」

 教師として全力で生徒と向き合えたのは、「義父母のおかげ」と、ツチヱさんは言う。

「お義父さん、お義母さんが、勝彦や洋子の親がわりになってくれたから、私は仕事に専念できたんです」

 もとより、親のお株を取られたことで寂しい思いも。

「勝彦の家庭訪問で、担任の先生に“お姉さん”と間違われたりね」

 それでも、ツチヱさんから聞こえてくるのは、義父母への感謝の言葉ばかりだ。

「寒い夜、仕事から帰ると、お義母さんが私の着替えをこたつで温めておいてくれて。実の娘のように大事にしてもらいました。ほんと、実家におるようでね、幸せでした」

 定年まで勤め上げた。28年間の教師人生は、感謝の気持ちを持ち、感謝の気持ちを生徒に教える日々でもあった。

※以下、後編に続く(本記事は『週刊女性PRIME』用に3編に分けて再構成しています)
〈前編〉94歳の恋文が話題――初対面の結婚式で、夫に恋をしました
〈後編〉94歳の恋文が話題――結婚50年の節目の慰霊巡拝、最愛の娘の死

取材・文/中山み登り 撮影/佐々木みどり