「私ね、のんきというか、苦労を苦労と思わないのよ。嫌な思い出はすぐ忘れちゃう。でも戦争は……、戦争だけはもうたくさん。毎日のように空襲に襲われ、大好きな踊りの場も奪われてしまって。あの苦しい思いだけはね、今もずっと消えないままですよ」

 凛とした瞳の奥が一瞬曇った。ゆう子さんは13歳で家族と離れ、浅草の芸者置屋『新菊の家』に住み込みの奉公へ。唄や踊りから三味線、太鼓、笛まで3年間、稽古と個人練習をみっちり積んだ。その合間に先輩芸者の下駄を洗ったり、掃除をしたりする毎日だったが、「踊りを好きな気持ちが勝って、ちっとも苦しくなかった」とほほ笑む。

 そして1939年、16歳で芸者デビューを果たした。

「当時は芸者が300人、(料亭や待合などの)“お出先”は250軒ほどありました。それが終戦のころには10分の1まで減り、今では浅草で戦前を知る芸者は私ひとり」

 '41年に太平洋戦争が始まってからも、軍人を相手に営業を続けた。だが、戦禍が激しくなり、'44年には150年続いた花街が閉鎖に。

「ただ唄って踊って、三味線が弾けたら幸せだったのに、寂しくてしょうがなかったね。食料が配給制になり、B29が頻繁に上空を飛ぶようになってからは、街じゅうが暗い顔をしていました」

 東京大空襲の悪夢は、今も脳裏に焼きついて離れない。

「辺り一面が火の海、死体の山。もう2度と、あんな光景は冗談じゃないですよ」

 当時、長男を身ごもっていたゆう子さんは、母と在宅中に激しい爆撃音に襲われて、着の身着のまま外に飛び出した。目の前に焼け野原が広がるなか、先輩芸者から贈られた化粧鏡が頭をよぎった。

「“大事なものを置いてきちゃった”と母に言い残し、草履のまま2階に駆け上がりました。鏡を胸に抱いて一目散に外に出て、振り向いたら、家がメラメラと燃えていた。

 母と避難した小学校までの道のりには血が流れた死体、黒く焦げた死体……、見渡す限り死体が転がっていて。爆弾を受けて熱かったのか、井戸の桶に頭をつっこんで絶命している人もいました」

 容赦なく降りかかる火の粉をよけるのが精いっぱい。死体を片づける暇はなかった。

「“かわいそうに”“どうか安らかに”って思いながら、素通りするしかできなくて、本当にふがいなかったね」

 家を焼失したゆう子さんは広島に住んでいた姉夫婦の家に疎開した。乗ろうとした汽車はごった返していて、乗り口から入り込む隙間はない。

「日本の兵隊さん2人が窓から私と母を引っ張り上げてくれたの。姉夫婦もやさしくしてくれたけれど、原爆でお義兄さんが亡くなって。乳飲み子の息子と母を連れて、東京に戻ったのが終戦の日よ」

 三味線や着物などを預けていた質屋の蔵が無事で、終戦の翌年に花街が再開されると、すぐ仕事に復帰できた。

「もう70年たつのね。周りの方々に恵まれ、なんとかやってこられました。おかげで今も、お客さんとお話しするのが何より楽しいのよ。絶対に100歳まで続けたい」

 そう意気込むゆう子さんには、座右の銘がある。

「“人生うまくいくかは、自分の気の持ちよう”。でもね、戦争だけはどうしようもない。みんな苦労ばっかりして、誰も幸せになんてならない。何の罪もない人が死ぬのは言い表せないくらいのつらさがある。

 周りのみんなと笑い合って過ごせる幸せを、もう捨ててはいけません」