「部員は3学年で12人弱。池谷幸雄や西川大輔を輩出したことでも有名な王者・清風高校とははるかに差がありました。自分も現役引退直後で動けたのでいろんな技も教えた。高校時代に感じた人と一緒に作り上げていく大切さを再認識して楽しかったですね」と彼は笑顔を見せる。

 結果的には近畿大会4位。不完全燃焼感も強かったが、3年生を送る会のとき中田は自分の名前を入れた金色のメダルを作り、ひとりひとりにかけてねぎらった。その最中に下級生が突如として立ち上がり、こう言い放った。「先生はここにいる人ではありません。ここでは絶対勝てません」と。

「実は7~8回、香川県の坂出工業高校から “こっちで指導しないか” という誘いを受けていた。’93年に香川と徳島で『東四国国体』があり、新体操強化を考えていたんです。生徒たちもそれをどこかで聞きつけて知っていたから、私の背中を押すために1人がそう言い出した。送る会は結局、騒然としたまま終わり、私は坂出に行く決意を固めました。そして出発の日。生野からわざわざ住之江まで生徒たちがそろってやってきて、卒業生5人の名前を入れたメダルを私の首にかけてくれました。さすがに感極まり涙が出ましたけど、彼らに申し訳ない気持ちも強くて、まともに顔を見れないまま立ち去ったんです」

 30年近い昔のことを語りながら中田は再び涙をこぼした。指導者1年目の出来事は今も心の奥底に深く刻まれている。このとき生野に残してきた生徒のためにも最高のチーム、最高の演技を作らなければならないと思い続けて、彼はここまで戦ってきたのだろう。

新天地での栄冠、そしてどん底へ

 とはいえ、青森育ちの中田にとって四国は大阪以上に未知なる地。地縁血縁もなければ友人も皆無に近い。単身、坂出に降り立ったとき「空気が生暖かい」と驚きを覚えたという。小さなアパートに住み、駅前の一杯飲み屋の常連になりながら、少しずつ土地に慣れ、学校にも慣れるように努めていった。

 坂出工業は全国大会常連ではあったが、23チーム中7~8番手。頂点を目指すとなれば意識を根底から変える必要がある。自身が国士舘時代にやった猛練習は当然のこと、生徒たちとも真っ向から向き合い、本音でぶつかって「お前らを絶対に勝たせる」と断言。強固な信頼を築いていった。帰宅時間が遅くなることに不満を吐露していた親も「ウチの子が勝ちたいからやっていると言うんで」と理解を示し始め、指導者・生徒・保護者の三位一体の良好な関係も生まれた。

監督として、高校総体、選抜大会、国体の3冠を手にした坂出工業時代
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 地道な積み重ねが実り、中田が目指していた高校総体優勝を1年目に達成。5年目の’93年には高校総体、選抜大会、国体の3冠を果たす。20代の指導者がタイトルを総なめにしたのは史上初。中田吉光の名は新体操界で知れ渡った。

 しかし、東四国国体の年を境にチームは急降下し始める。当時の生徒で、坂出工業の林晋平現監督はこんな見方をしていた。

「僕が入学した年に国体があり、2年のときは優勝メンバーが3人残っていたのでまだよかった。だけど3年のときは高校から始めた初心者が増え、先生の情熱が伝わらず、物足りなさを感じたと思います。’93年に3冠を取ったときは文句のつけようがない勝ち方をしていたぶん落差が大きかったんでしょう」

 中田を奈落の底に突き落とすようなショッキングな出来事が起きたのは’96年夏。高校総体を目前に控えた学校での合宿中に選手8人全員が逃亡してしまったのだ。

「朝練の時間になっても寝ているんで、 “これでいいのか?” と思いつつ、新聞を取りに行って戻ったら全員が消えていた。保護者とも連絡をとり、必死になって探しました。坂出は周辺の島々に行くフェリーがあるのですが、乗り場のひとつで自転車が見つかり、島から島へ転々としていることがわかった。彼らを発見したのは翌日です。合宿はもちろん取りやめになり、高校総体も “好きなようにやれ” と送り出したところ、優勝からはほど遠い8位に終わった。それまで張り詰めていた糸が切れたような気がしましたね」

 これを境に全国で勝てなくなり、中田は約5年間、悩み、苦しみ、もがき続けた。悪いことは重なるもので、プライベートの問題にも直面。孤独に耐え切れず、酒に逃げる日々を送ることになった。「そのころの先生は酔っぱらうたび “寂しい” “子どもたちがついてこない” とこぼしていた。見ているこっちがつらかった」と林は打ち明ける。