「中学2年になったころから盛り場をうろつき、吹奏楽部の練習以外は、ろくに学校にも行っていませんでした」

 当時の沖縄は那覇派、コザ派、山原派といった愚連隊が徒党を組み抗争を繰り返していた。喜八郎はそうした悪い仲間とつるんでは問題を起こしていたのである。

「父は忙しく、私のことなどにかまっていられませんでしたから、もうやりたい放題でしたね」

吹奏楽に打ち込む一方で、悪い仲間ともつるんでいた那覇中学時代。コザの高校に進学するが……

 中学を卒業後、那覇を離れてコザにある中央高校へ進学したものの、そこでも揉(も)め事を起こし、高校を1年で退学。

 見かねた父・新一は、喜八郎を東京の叔母のところに預ける決心をする。

「今となっては父に感謝しています。もしあのまま沖縄に留まっていたら抗争に巻き込まれて死んでいたかもしれません。当時の沖縄は米軍基地がある関係で武器がたくさんありました。お金のない米兵が飲みに来て拳銃を置いていくような時代でしたから

 12歳で母のもとを15歳で父のもとを去らねばならなかった喜八郎は、船と夜行列車を乗り継ぎ1日以上かけて東京にたどり着いた。東京駅まで迎えに来てくれたのが喜八郎にとっては東京の母ともいえる父・新一の妹・梅子だった。

客商売で頭角を現し、渋谷の顔役に

 喜八郎が進学したのは、東京都目黒区にある私立目黒高校。夜間部に入った喜八郎の素行は改まるわけもなく、お酒を飲んでは喧嘩をして警察の厄介になった。

「大森にあった叔母の家は運送会社の寮の隣にあって、そこの若い運転手たちとはさんざん喧嘩をしました。沖縄や島の悪口を言われると我慢ならない。今から考えると上京したばかりのころは島国根性の塊でしたから。そのたびに警察まで身元を引き受けに来てくれたのが叔母でした。叔母には迷惑のかけ通しでした」

 そんな息子の行状を聞きおよび心配した母は、親戚筋を頼って喜八郎をある店でアルバイトさせることにした。

 それが渋谷区宇田川町にある「白馬車」という名曲喫茶だった。

「あのころの宇田川町は、台湾料理の店『麗郷』をはじめ台湾の人がオーナーを務める店がたくさんありました。姉が台湾に嫁いでおり、その縁で『白馬車』のオーナーに頼み込んだようです。これ以上悪さをしないように監視する意味もあったんでしょうね」

 上京した翌年、夜間部から昼間部にかわった喜八郎は、学校が終わると「白馬車」で皿洗いのバイトを始めた。

「時給がよくてお金が面白いように貯まっていくので時々学校をサボって朝からバイトをさせてもらいました」

 人より2年遅れ、20歳で高校を卒業した喜八郎は、やがて「白馬車」の階下にある「スカラ館」というカウンターバーを任されるようになる。

 当時の渋谷はいまだ戦後の喧騒の中にあり、喧嘩ややくざ同士の抗争などさまざまなトラブルが渦巻いていた。当時の喜八郎を知る従兄弟であり、あのブルース・リーにも空手を教えた少林寺流拳行館空手道館長の久高正之空観さん(76)は、こう語る。

「喜八郎は男気があり、争い事が起きても逃げず、正々堂々と立ち向かっていく信頼のおける男として、渋谷では顔が売れていたようです」

 喜八郎も少林寺流拳行館空手道、五段。不自由な左足をかばうために特別にステッキ術を会得していたおかげで、危ない場面を何度も切り抜けることができたという。

 時代は高度成長の真っただ中、「スカラ館」を流行(はや)らせた喜八郎は、さらにもう1軒新宿の区役所通りにバンドを入れた本格的なサパークラブ「ピープル」をオープンさせた。

 この店も開店当初から流行り、喜八郎の叔父にあたる久高政棋(まさよし)夫妻の仲人で結婚式を挙げたのも、このころのことだった。

「娘の香葉が生まれた時の喜びは忘れられません。立川に家を買って落ち着こうと思いましたが店が忙しく、なかなか家族との時間が持てず、香葉が6歳の時に妻とは別れてしまいました。香葉も今では3人の子どもに恵まれ元気です。時々、孫の顔を見せに来てくれます」と、喜八郎は相好を崩す。喜八郎は結局、3回結婚をすることになるが、5人の孫に恵まれたことが何にもかえ難い幸せだったという。

 そのころ、喜八郎にはもうひとつ、人生を左右する大きな出会いがあった。それは海底遺跡を発見するきっかけとなるダイビングである。