ダイビングの師匠との出会い

 ダイビングを初めて教えてくれた師匠である川平昌直との出会いは、喜八郎がお店のかたわら、外車の並行輸入を手がけていた時代にさかのぼる。

 喜八郎自身も外車が大好きで、アメリカの高級車の先駆けといわれたキャデラックのエルドラドに乗っていたこともあった。

「那覇の有名な産婦人科の家に生まれた川平君は、桁外(けたはず)れのお坊っちゃまでした。彼の車には当時から冷蔵庫がついていて、休みになると真鶴半島の先端にある三ツ石海岸の石切場に行ってトコブシやサザエをとったりしながらダイビングを覚えました。この出会いがなければ、与那国島に帰ってもダイビングショップを始めることはなかったでしょうね」

 ということは世紀の大発見といわれた「海底遺跡」もいまだ発見されず、海深く眠っていたに違いない。

 喜八郎は高度成長の終焉(しゅうえん)とともに「スカラ館」「ピープル」を閉めると、故郷に帰る決心を固める。

「父は那覇で仕事をしているため帰ることができず、母も年をとり男は私ひとり。母は早く帰ってきて孫を欲しがっていました。そこで当時、付き合っていた2番目の妻となる女性と与那国島に帰ることにしたのです」

のどかで豪快な渡難の島、与那国の自然。

故郷のために何ができる?

 喜八郎が島に帰ったのは、’80年代初頭。バブルに向かって、景気も上向きになり、港の工事も始まっていた。そこで潜水士の資格を生かしてみずから港の海に潜った。その一方で、東京で成功を収めた客商売への未練も断ち切ることはできなかった。

「当時、石垣島はトンネル工事やダム工事で大勢の人たちが島に押し寄せていました。そこで東京から50人くらい女の子を呼び寄せ市役所の真向かいに本格的クラブをオープンさせました」

 それが「レストランシアター・クラブクィーン」である。

 その後もディスコやサパークラブなどを経営し、足掛け4年ほど石垣島と与那国島を行き来する生活を続けたが、1985年、3人目の妻となる恵子との結婚を機に石垣島を離れた。

「その年に祥子が生まれたことも大きなきっかけになりました。私も40歳を前に故郷のために何ができるか、子どもたちにどんな未来が残せるか真剣に考えました」

 与那国島に腰を据えた喜八郎は、母が切り盛りしてきた「旅館入船」を増改築してホテルにリニューアルさせると、与那国島で初めて本格的なダイビングショップ「サーウェス・ヨナグニ」もオープン。島の周辺をくまなく潜り「遺跡ポイント」をはじめ45か所に及ぶダイビングポイントを発見。大型回遊魚に会える島として与那国島にダイビングブームを起こした。

与那国島の水中景観、透明度、魚の種類、どれをとっても世界一。こんな島が日本にあることを誇りに思っています。

 今では中国本土、香港からも与那国島を訪れるダイバーが後を絶ちません」

 そうした喜八郎の思いは、後輩たちにも受け継がれ、今では、100名以上のインストラクターが世界の海で活躍している。

 与那国島に帰ってから生まれた長男・正太郎(30)も今では喜八郎の右腕として働いている。

「正太郎は英語はもちろんのこと、台湾に留学していたので北京語も話せます。これからは与那国島がアジアの懸け橋になってほしいですね」