忘れられない「小さないのち」

 今ではパワフルに全国を駆け回り、信念を持って防災について伝え続けているかもんさんだが、プライベートでは何度も大きな荒波があった。

 27歳で結婚した後も仕事を全力で続けていたが、31歳で1人目を出産。育休が終わるころ、自ら仕事を辞めた。

結婚式の1枚。夫の祐介さんは高校時代の同級生

「初めての子育ては本当に新鮮で、わが子と離れたくなかった。物が売れるとか売れないとか、どうでもよくなってしまった」

 自分でそう決断したものの、仕事を辞めてからの毎日は育休中とは全く違う。気がつけばママ友もおらず、1日中、誰とも話さない。子育てひろばに出かけても、ママたちはすでに友達同士。結局、誰とも話すことなく、泣きながら帰ったこともある。

 見るに見かねた夫の裕介さんが働くことをすすめ、マーケティングの会社に再就職。「ママだからこそできることがある」と言われ、光が差した。

 仕事を再開して1年、2人目を妊娠した。妊娠の経過は順調だった。裕介さんはすべての妊婦検診に立ち会ったが、忘れられない検診がある。

「エコーを見ているとき、先生の手がパッと止まって首を傾(かし)げた。スッとその先生が出て行って、代わりに院長が出てきたんです。これは相当悪いと思いました。ひととおり診てから、別室に2人で呼ばれました」

 裕介さんは細かくそのときの会話を覚えている。

「原因不明の難病でした。専門の大学病院で、出産と同時に緊急手術をしても助かる確率は15%以下。本当に難しい手術になると言われました」

 突然降りかかった答えの出ない大問題に、夫婦の心は揺れに揺れた。2人は何度も訪れた思い出の地、沖縄でひとつの決断に至る。

 2002年6月25日、生まれた日が命日になった。家族を結ぶ子にと思いを込めて「結里」と名づけた。母子手帳はあるが戸籍はない。

「その場で2人で抱っこしました。小さな小さな赤ちゃんだったけど、ちゃんと重かった。僕ら2人だけで火葬場に行きました。今でもお骨はお墓に入れず、子ども部屋にあります。毎年、命日には必ず抱っこしています」

結里さんのお骨は今も子ども部屋にある。「東北で子どもを亡くしたママを聞いて、火葬場でわが子を送ったあの日を思うことも」(かもんさん) 

 裕介さんは、そのことが今のかもんさんの活動に影響を与えていると考えているが、かもんさんは、裕介さんほど詳細には当時を語らない。

「本当のところはわからないけれど、僕は、彼女が“救えるいのちを救わなければダメだ”と強く訴えるのは、この子の存在が大きいんじゃないかと思っています」

 かもんさんは、当時をこう振り返る。

妊娠したらみんな元気に生まれてくると思っていたんです。だけど、こうしたら絶対こうなるなんてことはないと思い知らされた。外を歩くと、妊婦も赤ちゃんもいる。しばらく家から出られなくなった。無心になりたくて家中を掃除して、夜は子どもを亡くしたママのサイトばかり見ていました」

 そのサイトのママたちの言葉に力をもらい、かもんさんは仕事にも復帰。少しずつ動き出すようになった。