まるで樹木が枯れるように

 自宅に戻ってからの哲さんは、好きな草花の写真を撮りに行くのが日課だった。

「毎日のように、カメラを担いで“行ってきます”って上機嫌で」、そう話すのは、現在、看護師として働く、長男・史一さん(26)。

「夕方になると、“ただいまー”って帰ってきて、“いい写真、撮れた?”って聞くと、“おう”ってうれしそうに笑ってね。機材を置くと、待ちきれないように、好きな酒を飲み始める。仕事から帰った母も、よく一緒に晩酌してました」

 がんの再発・転移を機に、仕事をリタイアした夫に代わり、妙憂さんが一家の大黒柱として家計を支えた。

「余命は告げられていなかったけど、5年、10年、この生活が続くと信じていました。抗がん剤治療をしなかったので、体力が落ちることもなく、すごく元気でしたから」

 しかし、残り時間は思うほど長くはなかった。

 62歳で旅立った哲さんの闘病生活は、2年あまり。

 1年が過ぎたころから、体調は徐々に悪化し、亡くなる半年前から、妙憂さんは仕事を休んで看病に専念した。

「外出するのが難しくなると、主人は家で1日中、撮りためた写真の整理をしていました。フィルムで撮った昔の写真も、パソコンに取り込んで、マウスでひとつひとつ丁寧に埃(ほこり)を取って。すべてを終えて、写真のデータを私に託したときは、ホッとした表情を浮かべていましたね。もう、やり残したことはない、そんなふうに見えました」

 やがて、寝たきりになると、在宅医療の医師やヘルパーの訪れる回数が増えていった。それでも、「家はいつもどおりだった」と史一さんは話す。

「母はいつも、“自由にしてていいよ”って僕らに言っていました。だから、遊びにも行ったし、友達も泊まりに来ていました。ふだんの生活の中に哲さんの看病があったから、無理せず、自然に手伝えたのかもしれません」

 当時、看護学生だった史一さんは、習いたての知識を生かし、着替えや、体位替えを担当。小学2年生の次男は、すっかり食欲が落ちた父親に、すりおろしたジュースを飲ませる係だった。

「長男は心強い助っ人でしたね。次男は無邪気な年ごろですから、主人がジュースを飲むと、“飲んだ! 飲んだ!”と大はしゃぎ。ムードメーカーになってくれました」

1998年、長男を育てるため看護学生になったころ
すべての写真を見る

 ときに妙憂さんの手をそっと握ることがあった哲さん。

「そのぬくもりは、今でも私の宝物です」と、妙憂さんは話すが、哲さんも同じ思いで旅立ったのではないか。

 やりたいことをまっとうし、住み慣れたわが家で、家族が奏でる生活の音に囲まれて、残りの時間を過ごす。

 俺は幸せもんだ、哲さんの声が聞こえてくるようだ。

「主人は、まるで樹木が枯れるように、安らかに旅立ちました。病院と違い、無理な延命処置をしなかったのもよかったんですね。看護師として、今まで見たことがないほど、美しい死にざまでした。主人は身をもって、教えてくれたのかもしれません。人は本来、自分でちゃんと後始末をして、旅立てるんだよって」