次第に風向きが変わり、担当コーナーや予想記事を任されるようになった。2年勤めた後、夕刊紙『日刊ゲンダイ』に転職する。当紙の編集部長の経験もある前出の二木啓孝さんが言う。

「創刊号の立ち上げに呼ばれて行ったら、とんでもない職場だったみたい。夕刊紙だから競馬の誌面が重要なんだけど、6ページくらいを毎日取材して書かなければいけなくて、相当ハードだったと思う。

 でも今の彼女を見ていると、男と対等に生きようとか気を張っているんじゃなくて、男女関係なく自然体でやっているよね。日刊ゲンダイで人が少ない中、一生懸命やらないといけない環境でかなり揉まれたんじゃないかな」

一気に3児の母、夢のちゃぶ台囲みへ

 担当する連載の取材で、のちに夫となる9歳年上の騎手・吉永正人さんと出会う。カメラにフィルムを入れ忘れてあわてる吉永さんに、正人さんは何種類ものフィルムを買ってきてくれたという。

 正人さんは当時、個性派騎手として人気を博しながら「無冠の帝王」と呼ばれ、ビッグレースの勝利とは無縁だった。また夫人に先立たれ、1男2女の幼い子どもたちを3か所に預けて暮らすという寂しい境遇に見舞われていた。2人はほどなくして惹かれ合うようになる。

 当然、両者の結婚には周囲の大反対があった。母は「娘をたぶらかしたあの男を、私は鉈で頭をたたき割ってやりたいほど憎い」と言い、正人さんはその母をひとりで訪ね、黙ってその前に、競馬で使う鞭を差しだしたという。

 吉永さんはすべてを引き受ける覚悟を決める。

「大変、大変とみんなが言うけれど、楽しいかもなぁって。バラバラに暮らしてた夫の子どもたちも気になっていたし、ずっと夢だったちゃぶ台を囲むというのがいきなりできちゃうじゃない! と」

 '77年、正人さんと結婚した吉永さんは仕事を辞め、一家は府中の社宅で暮らし始めた。長女の吉永悦子さん(49)は、大好きだった“お姉ちゃん”が来てくれ、再び家族そろって暮らせるようになったことがとてもうれしかったと話す。

「最初のころ、母はお手伝いが上手にできたねとか、帰ってきて遊ばないで勉強できたねと言っては、壁に貼った紙に〇を書いてくれました。狭い社宅だったので、お隣のお母さんの怒る声も聞こえてくるんですが、自分が同じことをしたら、“いじめ”みたいに思われかねないと、なるべく怒らずに私たちをしつけようと考えてくれてたんだと思います。

 小学校の参観日に母が来ると、みんながハァって見るんです。きれいなお母さん!って。それがとても自慢でした」