リポーター人生のはじまり

 しかし、女性は男性のアシスタント的な存在で番組のメインを務めることはなかった。「ニュースを読ませてほしい」と上司に言うと、女はニュースを読めないとけんもほろろに突き返された。

「理由を尋ねると、女が読むと信憑性がなくなるんだよと言われたんです。これには腹を立てましたね」

 入社13年目、それまでの生活にひと区切りつけたいと、ニッポン放送を退職した。

ニッポン放送に入社して間もないころ。1年目、職場によく遊びに来た野際ものちにNHKアナウンサーになった

 子育てに専念して1年ほどたったころ、フジテレビから「スーパーのチラシのような番組が始まるんですけど、やりませんか?」と出演オファーの連絡が入った。

 '67年、日本初のテレビショッピング番組『東京ホームジョッキー』(フジテレビ系)にリポーターとして参加することになる。元ニッポン放送プロデューサーだった高崎一郎が司会を務め、平日夕方4時に主婦が買い物に行く足を止める番組と銘打って、東北から運んだ鮮魚を売ったり、駅弁大会をしたり、通販番組のはしりのようなものだったという。

「フジテレビの中でもにわかにできた部門で、廊下みたいなところに机があって、壁に“ネタを持って来ないやつはクビ”と書いてありました。とにかく何か情報を仕入れてこいと言われるんですが、当日の朝に撮ってきたビデオを無編集で放映したり、テロップを手書きで書いたり、それはそれで面白かったです」

 やがてその流れを酌む通販番組『リビング4』が誕生し、東海林さんは引き続き商品の紹介などを担当した。番組の反響は大きく、ピアノを特別価格で販売したときは、電話回線がパンクしたほどだったという。

「そのころは記憶力がよくて、業者の説明どおりに商材の大きさや特徴を覚えて、そのまま話していました。物売りやってるんじゃない? なんて言われても、自分がやっていることに面白さを感じていましたね。それをひとしきりやった後、もういいかなと思って辞めたんです」

 それからほどなくして東海林さんのリポーター人生の始まりとなった1本の電話がフジテレビからかかってくる。

「小さな女の子が事件に巻き込まれて亡くなる案件が発生しました。男のリポーターが辞めてしまったんですが、今すぐ行けますか?」

「私は“行けます”と即答していました。事件の取材のやり方とかわからなかったんですが、感覚的にやってみようと思ったんです。子どもたちを近所の奥さんに預けて向かいました」