1944年の冬から本格化し、甚大な被害をもたらした東京大空襲では約10万人が犠牲になったとされる。しかし、雅子さんには死体を見た記憶がない。公園に避難するときも、公園から自宅に戻るときも……

 東京都墨田区の星野雅子さん(89)は、下町の合金型枠工場を営む職人家庭に生まれた。5人きょうだいの末っ子。

“あらっ、上野駅”

 母親は小2のときに病死し、以来、13歳年上の次姉が母親代わりを務めた。父親は雅子さんを可愛がり、よく落語を聞きに寄席に連れて行ってくれたが─。

 15歳の年の3月に東京の下町を焼き尽くした大空襲で、そんな思い出は打ち砕かれてしまった。父と次姉、そして隣の家族の計6人で防空壕に避難した矢先のこと。

15歳のとき。ヘチマ襟の制服で
15歳のとき。ヘチマ襟の制服で

「警防団が来て“きょうの空襲は規模が違う。ここは危ないから逃げてください”と言うんです。それで駅の操車場まで移動してしゃがんでいたら、今度は駅員が来て“貨車に火が入ると危ないからどいてください”と。

 しかたなしに錦糸公園まで逃げる途中、婦人会のおばさんが水をジャージャーかけて身体に火が燃え移らないようにしてくれて。公園でひと晩明かす中、爆撃機B29がすごい低空を飛んでいきました

 コックピットの米軍兵が下を向いているのが見えたという。

「機銃掃射はされませんでしたが、あたりで燃えさかる煙にやられて目があかなくなってしまった。隣のおばさんが目を舐めてくれて、ようやくあけられるようになりました

 朝になると一面、焼け野原で視界をさえぎるものはなく、遠くの上野駅の駅舎が見渡せました。“あらっ、上野駅”と驚いて」

 空襲で家族は助かったが、友人の命は奪った。