混沌のバスケ界で「打倒トヨタ」を掲げ奔走

 社員が自信を取り戻すまでには2年を要した。会議は30分以内、残業ゼロ、先送り禁止、整理整頓などあらゆる新ルールを掲げ、環境を変えた。「バスケが好きでやっているから何でもOK」という意識を、明確なビジネス感覚へと切り替えさせたのだ。そのうえで自分も靴をすり減らしてスポンサー回りを続けた。

 身近にいたオペレーション本部興行・イベント部の部長、石井理恵さんは神妙な面持ちで言う。

「島田会長はあの手この手を使って小口からスポンサーを集めていきました。居酒屋から10万円のサポートカンパニー契約を取るために『キリバス産生マグロ製品紹介』と題した仕入れ先拡大の提案書まで作ったほど、努力と工夫を重ねていました。集客も目標を設定して数字を細かくチェックし、さらに上を目指そうとしていました。壁にぶつかっても弱音を吐いたことは1度もないですし、“じゃあ次は何ができる”とポジティブに考える。その姿勢から学ばされることが多かったです」

 飽くなき情熱は家族も動かした。「お父さんを単身赴任させるわけにはいかない」と2012年春には再び千葉に転居したのだ。直後からは妻もジェッツの手伝いに行き始め、イチから学んで経理を担当し、新スタッフ採用の面接官まで買って出た。

 社長就任から4か月後の2012年6月、千葉ジェッツはbjリーグからの脱退と日本バスケットボールリーグ(NBL)移籍を発表する。 

 当時のバスケ界は2つのリーグが併存していて、最終的には国際バスケットボール連盟から「リーグ統一しなければ2016年リオデジャネイロ五輪予選に出場させない」と最後通牒を突きつけられるほど、深刻な対立構造にあった。後発のbjリーグは演出や興行面では勝っているが、レベル自体は大企業主体のNBLが上と言われていた。ジェッツの観客数を伸ばし、収益を上げようと思うなら、強豪ひしめく後者に行って「下剋上」という夢を作ったほうがいい。島田はそう判断した。

「2~3か月悩み抜いて、日本のバスケ界を引っ張っていくという大義で決断しました。自分の強い意思に駆り立てられた。“反骨心”ですかね」

 bjリーグ関係者からは白い目で見られた。

「千葉ジェッツは裏切り者」

 こう罵られもした。島田はすべてを飲み込み耐えた。そして「打倒トヨタ(現アルバルク東京)」を掲げ'13―'14年シーズンのNBLに乗り込む。

「当時のNBLの人件費は1億5000万円。bjは6800万円でしたから、普通に考えたらムリ。でも私はそこを逆手に取って“約8000万円でトヨタを倒せます。みなさんが100万円ずつ出してくれたら可能になります”と営業の売り文句にしたんです」