女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、渋沢栄一邸の前で遊んでいたという子ども時代を振り返る。

この大きなお屋敷は何なんだろう

 私の出身地は静岡県三島─となっているけど、実は1歳から6歳まで東京育ち。当時存在していた滝野川区滝野川町一番地に家があり、なんとあの(!!)渋沢栄一さんの邸宅の真ん前に住んでいた

 新しい1万円札の顔になる方のすぐ近くで幼少期を過ごしていたなんて、今考えるととても贅沢なことだったような気がする。

 その時代、すでに渋沢さんは泉下の人だけど、子ども心に覚えているのは「この大きなお屋敷は何なんだろう」ということ。渋沢邸は石の塀がずっと続いていて、お勝手口に石段があった。私は、よくそこで遊んでいたのだ。

 渋沢さんの親族だったのかもしれない。たびたびそこを通るきれいなお姉さんがいて、見かけるたびに「きれいなお姉さん、いってらっしゃ~い」なんて声をかけていた。するとお姉さんも「はーい」と返してくれて、童心ながらうれしかった。

 私は岩崎家の三女だが、その下に長男がいる。3人続けて女の子が生まれたため、母は長男の誕生をいたく喜んでいた。日曜日になると、決まって父と私を含む3人娘におそろいの服を着させて、近所の飛鳥山に遊びに行かせていたけれど、きっと長男と2人っきりになりたいから、邪魔者であるわれわれを家から追い出したに違いない(笑)。

 飛鳥山の甘味処で父と食べるみつまめは、とても美味しくて楽しかったけど、その間、ゆっくり長男を抱きしめ、母は幸福を味わっていたんだなって思うと、何だか少し複雑な気分になってしまう。

 両親は長男である弟を溺愛していた。当時、干飯といって、ご飯を干していり、おしょうゆの味つけを加えた保存食があった。ある日、私はその干飯とバナナがきっかけで、疫痢になってしまった