「両親の修羅場」と運命の出会い

「お父さんが浮気してるみたいなんだけど……」

 ひろ子さんの人生は母親からの1本の電話で大きく変わっていく。

内気な性格だったという幼少期のひろ子さん
内気な性格だったという幼少期のひろ子さん
【写真】西出ひろ子さんと仲よく並んで。自死した父親の生前の姿

 大分県別府市で生まれ、父親が不動産業を営む裕福な家庭で5歳下の弟とともに大事に育てられた。

 高校卒業後、推薦で良妻賢母を目指す大妻女子大学に進学し、上京。女子大生ライフを満喫しようと思っていた矢先の出来事だった。

 まさに青天の霹靂。ひろ子さんは、大学が休みに入るとすぐに実家に戻り、両親の不仲を取りなそうと試みた。

「母親が依頼した探偵と一緒に車で父を尾行したりもしました。浮気相手とラブホテルに入るところを確認し、父が車から降りたところに『お父さん!』と声をかけ、そのまま逃げられたことも(笑)。でも父は、離婚をするつもりはなかったんですよね……」

 ひろ子さんは、必死になって父に手紙を書き、説得した。

 だが、両親の関係は修復せず、別居に至る。離婚協議は難航した。

「私は、父だけが悪いわけじゃないと思っていたんです。父は必ず毎日家に帰ってきたし、外で子どもはつくらないと決めていた。だから、折り合いをつける方法があるんじゃないかと思っていました。

「幼いころは暗い子でした。小学3年生のときに学級委員の書記になったことをきっかけに人前で話をするようになり、だんだん変わってきた。自分を認めてもらえた気がして自信を持ったのかもしれません」とひろ子さん 撮影/齋藤周造
「幼いころは暗い子でした。小学3年生のときに学級委員の書記になったことをきっかけに人前で話をするようになり、だんだん変わってきた。自分を認めてもらえた気がして自信を持ったのかもしれません」とひろ子さん 撮影/齋藤周造

 ところが、父と母は相手の立場に立つことなく、自分の意見だけを言って、相手を非難する。その姿を見たときに、人として美しくないと思いました。自分と同じ人なんて絶対いない。だからこそ、相手が言うことを受け入れられなくても、聞く耳を持ち、受け止めることはできるのではないか、と

 卒業後の就職先は、父が地元でまとめてくれることになっていたが、離婚騒動により白紙に。やむなく就職活動を始めた彼女は、運命の人と出会う。面接の仕方を学ぶため受講したセミナーのマナー講師、岩沙元子さんだ。

「初めてお会いしたときに、その美しいお姿とともに品のある話し方やしぐさ、心の美しさにすっかり魅了されました。なんというか……岩沙先生には人としてのやわらかさがありました。同時に、母の姿が浮かんで、つい、2人を比べてしまったんですね」

 専業主婦の母親は、料理などの家事はもちろん、作法が完璧な人だった。

「それこそ『女性は三つ指ついて……』の世界の人。中秋の名月にお団子を作り、鏡餅もおせちもすべて具材から調理するような、慣習にきちんとしている人。妻はこうでなくてはいけない、という『型』を重んじるタイプですね。

 母はマナーを『型』で捉えていた。でも、岩沙先生からは心、内面からにじみ出るものを感じたんです」

 両親の争いを目の当たりにしたひろ子さんには、岩沙先生がとても美しい存在に映った。母と岩沙先生、どちらも礼儀を大事にする人であったが、両者は「似て非なるもの」だと感じたのだ。

マナーについて教えてくれた恩師の岩沙先生と
マナーについて教えてくれた恩師の岩沙先生と

「先生のように、人として美しく生きたい──」

 ひろ子さんはマナー講師になることを決意した。

 当時、活躍していたマナー講師のほとんどはCA出身者だったため、客室乗務員の専門学校に通い始めた。ところが、視力に問題があり、試験に臨んだ航空会社は全滅。見かねた校長先生に、国会議員の秘書の仕事を紹介された。

「議員秘書といっても、鞄持ち。朝早くから先生について、何時に終わるかわからない夜の会合にも同行しました。先生が会食中は外で立って待ちます。朝コンビニでアンパンを3つ買って、先生が会食中、出てくるのを待つ合間をぬって、トイレで食べることも(笑)。当時はお休みがなくて時間も不規則でしたね。でも、初めての仕事だったので、当たり前だと思っていました

 議員秘書、政治経済ジャーナリストの秘書を4年間務め、エレベーターでの案内の仕方、名刺交換の仕方など、「マナー」の基礎を学んだ。

 休日は、本格的にマナーを学ぶために岩沙先生の自宅兼事務所にも足しげく通った。

 27歳のとき、マナー講師として独立。軌道に乗るまでは、生計を立てるために派遣社員として大手商社でも働いた。

「名の通った大手企業から依頼をいただくことが、マナー講師としてのひとつの成功であると思っていました。そのチャンスを逃さないためにも、大手企業の仕事がどんなものか、身をもって知っておくことが必要だと思ったんです」

 平日は派遣社員として働き、週末にほそぼそとマナー講師をする生活が続いた。

 母親や友人がみな、マナー講師の道を反対する中、唯一「やりたいことをやれ!」と背中を押してくれたのは父親だった。

「子どもに苦労はさせない」と言っていた父親と
「子どもに苦労はさせない」と言っていた父親と

 しかし、思いもかけずその父親が急逝してしまうのだ。