有名俳優も持ち上げない接客

 その後、ボーイの仕事の合間に出入りしていた喫茶店兼倶楽部『B』で“おしまママ”こと島田正雄さんに出会う。

 もともと進駐軍向けの食堂を営んでいた島田さんは、吉野さんと青江忠一さんをスカウトすると、お店の路線を変更。新橋の烏森神社の境内に日本初のゲイバー『やなぎ』を始めた。

「店の2階に住んで下働きしながら、歌や踊りの練習をして、接客して、毎日、目が回るほど忙しかったわ。おしまママは軍人だったから、スパルタ式でよく殴られたの。今だったらパワハラよね」

 接収が解除となり、街から進駐軍が撤退した後は、日本人相手の商売に切り替えた。

「3人で新橋の芸者からもらったカツラと着物で練り歩いて宣伝したの。お化けが行進してるなんて言われたけど、口コミが広がって、お客さんが集まるようになったのよ」

 なじみ客には江戸川乱歩やフランスの俳優、ジャン・マレーやアラン・ドロンといった面々がいた。群像喜劇の名手といわれた映画監督・川島雄三もまだ無名のころに、杖をついてよく訪れたという。

「川島先生に映画に出ないかって誘ってもらったのよ。でも男の役は嫌だったから、お断りしていたの。顔が出て、親にばれるのは嫌だったし」

『やなぎ』に住み込んでからは、すっかり実家への足が遠のいていた。

「天国でしたよ。ゲイの社会に浸かりっぱなしで。親には結婚しないのって聞かれたけど、返事をせずにそのままずっと。いろいろ言われるのが嫌だったから、何も言わせないように仕送りしていたの」

 31歳で独立し、銀座『ボンヌール』を開店。当時から明け方まで営業していた店に、新橋の芸者や女優たちは仕事帰りに足しげく通った。

『ボンヌール』はイケメンぞろいで人気に。左から2番目が吉野さん
【写真】パーティーでドレスアップした、20代のときの吉野さん

「私たちが着物でストリップをやると、女優の高峰三枝子さんや山田五十鈴さんが喜んでくださって、みんなにチップをくれるんだけど、それがばかにならないお金で!」

『枯葉』の世界的なヒットで知られるフランスのシャンソン歌手で俳優のイヴ・モンタンも『青い目の蝶々さん』の撮影の際、来店している。

「有名な俳優さんだからって持ち上げたりしないで、普通に接していたら、リラックスしてくださったみたいで、ずっとカウンターに座ったまま、私たちのこと見てたわ」

 同店を成功させた2年後の'64年、東京オリンピック開幕間際に六本木で『吉野』をオープンする。さらに多くのファンを獲得したことは前述のとおりだ。

 学生時代から『やなぎ』や青江忠一さんの開いた『青江』で働き、現在、赤坂で47年目になる『ニュー春』を経営する春駒こと原田啓二さん(79)は、吉野さんと同様ピンと伸びた姿勢で、先輩から学んだ接客について話してくれた。

「私たちはみんな姿勢がいいんですよ。呼ばれたらすぐ動かなきゃいけないから、深く腰かけないんです。吉野のお母さんからは特に、お客さまの特徴をつかんで名前をすぐ覚えることと、きちんとした敬語を使うことを教わりました。厳しい縦社会でしたけど、お母さんは全然威張らなくて、親しみやすい方でしたね」

 春駒さんが独立したとき、“一国一城の主として、苦しくても覚悟を持ってやりなさい”と叱咤激励されたそうだ。

「それからはお互いライバル関係にあって、内心、負けてたまるかって気持ちもありましたけど。この人にはかなわないな、この人からお勉強しようという思いでいました」

 コロナ禍で休業を余儀なくされたときも、吉野さんから労いの言葉をもらったという。

「大事にしなさい、何かあったら言っとくれと。ありがたかったですね。私ぐらいになると、こうしたほうがいいんじゃない?なんて言ってくれる人は誰もいないんですよ。吉野のお母さんぐらいしか。青江のお母さんも亡くなったし、現実にお店をやってて、昔のことを知ってる人間はもういないんです。私も吉野のおかんがいてくださるから、ちゃんとしなきゃって気持ちがあります。もうすぐ91歳ですから尊敬しますよ。もう人間国宝にしたいぐらい!」

 吉野さんは立ち退きで閉業した後、再び店を開くつもりでいた。ところが右腕だったちいママが急死し、叶わなくなったことが、いちばんの心残りだという。

「晴美って子がよくやってくれたから、生きていたら継がせて、ずっと一緒にやってたはずよ。でも亡くなっちゃったからね、ああ、こんなものかなって……」