「グリコ・森永事件」で取材される

1980年の4月、東京大学の入学式で母と。文学部へと進み、卒業後は森永製菓に入社する
1980年の4月、東京大学の入学式で母と。文学部へと進み、卒業後は森永製菓に入社する
【写真】涙を流してカメラを向けた母を看取った際の、父と母の別れのシーン

 '84年に入社すると広告部に配属された。コピーライター養成講座に半年間通い、本格的に仕事を始める直前の9月に、大事件が起こる。同年3月に江崎グリコの社長が誘拐・脅迫された事件を皮切りに、犯人は食品企業を次々脅迫。いわゆる「グリコ・森永事件」に森永製菓も巻き込まれたのだ。

 商品はすべて店頭から撤去されてしまう。売る場所がないので、工場で作ったお菓子を千円パックとして、社員総出で街頭に立って手売りすることに。そこに大挙して現れたのはマスコミだ。

「特に新人の女の子が狙われて、マイクを向けられることが多くて。そのころのマスコミって、おじさんの記者ばっかりだったから、ド~ッと来られると怖くて。事件でショックを受けているのに2次被害みたいになって、すごく嫌だったんですね」

 そのころ、ある女性新聞記者の取材を受けた。事件の被害者としてではなく、ひとりの女性として話を聞いてくれたので、親にも友達にも言えなかった本音を、初めて話すことができたそうだ。

「親から4年間仕送りしてもらって、これから恩返しする番だと思っていたのに、心配かけてしまって申し訳ない……とか話しているうちに、すごい泣けてきて。別に事件が解決したわけでもないのに、ああ、こうやって話を聞いてもらうと、こんなにすっきりするんだーって。それで、そのお姉さんみたいな仕事がしたいと思ったのが、今の仕事につながっている気がします」

 森永製菓を2年で辞めてテレビ番組の制作会社に転職した。新聞ではなくテレビを選んだのは、映像が好きだったからだ。26歳でアシスタントから番組制作を統括するプロデューサーに昇格し、さまざまな企画に取り組んだ。

 キャッチセールスの多様な手口を暴いた番組は、自身の悔しい体験がベースにある。まだ森永製菓にいたころ、落ち込んだ気持ちで街を歩いていて、霊感商法のキャッチセールスに引っかかったのだ。

「夏のボーナスが24万円だったんです。そんな話をしたら、これがいいと24万円の印鑑をすすめられて(笑)。『運が逃げるから買ったことは1週間黙っていて』と言われて、その後に友達に話したら、『それ、クーリングオフ期間だよ、バカじゃねえの』って(笑)。いつか番組にしてやると思っていたんです。転んでもただでは起きないというのは絶対にありますね」

 硬派な話題だけでなく、軟派な企画もよくやった。

「美味しいカレーの作り方とか、どこの店の餃子が一番美味しいかとか。私、何より好きな食べ物が母の作ってくれた餃子なんです(笑)。自分の気持ちが揺れるものじゃないと、やらないというのが基本スタンスですね」

取材相手に自分を滑り込ませる能力

仕事に夢中だったころ。1989年にTBS系『新世界紀行』で新疆ウイグル自治区に3か月ロケに行ったとき
仕事に夢中だったころ。1989年にTBS系『新世界紀行』で新疆ウイグル自治区に3か月ロケに行ったとき

 プロデューサーから、ディレクターに転身するきっかけになったのは、過激派の中核派を取材した番組だ。池袋の近くに拠点があり、「ご近所の秘境を訪ねてみたい」と思い取材交渉したら、すんなりOKが出た。だが、相手が過激派だけに、現場でインタビューをするディレクターを誰もやりたがらない。ならば自分でやろうと思ったのだ。

「爆弾はどこにあるんですか?」

 信友さんは単刀直入に質問して、中核派のメンバーにぐいぐい切り込んだ。取材が終わるころには、子どもの写真を見せてもらうほど相手も心を開いてくれたという。

 ところが、突然、放送できなくなる。局の上層部からストップがかかったのだ。仕方なく他局に売り込みに行ったが、誰もが二の足を踏む。

 そんな中、フジテレビのプロデューサーだった太田英昭さん(76)が、「面白いじゃないか」と言って、自分の担当する番組『今夜は好奇心』で取り上げてくれた。太田さんは後にフジ・メディア・ホールディングスの社長を務めたほどの切れ者だ。太田さんから見た信友さんの魅力は、どのへんにあるのか。

「信友さんは過激派のセクトの中を見てみたいという、実に単純で素朴な疑問と好奇心で満々だった。それは私にも通じるところがあったんですよ。この業界の中には自分のポジションを盾に取材交渉する人もいるけど、彼女の場合、自分の存在を取材相手にスッと滑り込ませるというか、入り込める特異な能力を持っている人だと思うのね。実に率直そのもので、どの場においても、誰に対しても態度が変わらない。普通のことなんだけど、その普通を持っていない人が業界には多いので、信友ファンは私以外にもたくさんいるんですよ」

仕事に夢中だったころ。1989年にTBS系『新世界紀行』で新疆ウイグル自治区に3か月ロケに行ったとき
仕事に夢中だったころ。1989年にTBS系『新世界紀行』で新疆ウイグル自治区に3か月ロケに行ったとき

 太田さんの言う「特異な能力」がよくわかるエピソードがある。例えば、北朝鮮拉致問題では、早い時期から何年も取材を続けて、ある拉致被害者の父親と仲良くなった。取材のたびに自宅に泊めてもらっていたら、他社から「信友さんだけずるい」と文句が出たほどだ。

 人気ロックバンド「X JAPAN」のボーカルだったToshIの洗脳騒動のときは、ToshIの密着取材を通じて本人の信頼を獲得。押し寄せる取材陣を仕切る役目を任された。

「私がこの人の立場だったら、どう思うだろうとか考えながら、一緒に泣いたりしているので、何でも話したい気分になるみたいですね。『なんか話しちゃったんだよなー』とは、よく言われました。中核派の人とはいまだ連絡を取っています(笑)」