ピアノ教室の先生を務め、家事いっさいをまかなってきた母が、65歳でアルツハイマー型認知症を発症。「専門知識はあったものの、身内のことになると、その現実にうろたえてしまって」と恩蔵さんは振り返る。記憶を失っていく母との暮らしで気づいた「認知症の真実」とは―。
「底なしの怖さがありました」
「もっとずっと早く病院に連れていけばよかった。認知症だとわかったとしても、『いいじゃん、別に』って言えたら、その後の母との暮らしはずいぶん違っていたと思います」
できていたことができなくなり、とまどう母に、脳科学者の恩蔵絢子さんは何度もいら立ってしまった。認知症という病名がつく前のあのころ、何かがこれまでと違うと感じつつも、とにかくその異変を認めたくなかった。
「『こんなこと、年をとれば誰でも起こるよ』って打ち消していたんです。認知症だったら母は母でなくなってしまうのだろうか、そんな底なしの怖さがありました」
母の異変に気づいたのは2015年、65歳の時。普段は几帳面で段取り上手な母が、みそを買いに出かけたのに手ぶらで帰ってきたり、約束をすっぽかしたり。日常のささいな失敗が目立ち始めた。
そんな状態が1年弱続き、ようやく医師の診断を受けたのは翌年。アルツハイマー型認知症というはっきりとした病名を告げられた。母は一瞬青ざめたが、脳科学者である恩蔵さん自身は、むしろ覚悟が決まったという。
「脳の中で記憶をつかさどる海馬という部分が、通常より萎縮していることがMRI検査でわかりました。でも『なんだ、海馬にちょっと傷があるだけか』と思ったんです。脳の他の領域は大丈夫だし、できることはまだいっぱいある、と」

まず恩蔵さんが実行に移したのが、母との二人三脚のみそ汁作り。海馬に支障が出ると、今さっき考えたことがすぐに思い出せなくなる。例えば、みそ汁を作ろうと思って野菜を切り始めても、野菜を切りながら「自分は何をしたかったんだっけ?」と混乱してしまう。
「でも、母は包丁の使い方や野菜の切り方など、身体で覚えた技術はしっかり残っていました。これは海馬ではなく、脳の別の領域がつかさどっているからなんです。だから私が横にいて、『おみそ汁よ』とその都度教えてあげれば、母は作業を続けられるんです」