天皇陛下が詠まれた和歌

《遠い古代からこの日本の国では、神と人の間、あるいは人と人の間で、深く重い心が交わしあわれる時には、その会話のことばはかならず「うた」によって交わしあわれました。「うた」こそは、聖なる言葉の形であり、神にも通じ人の心をも動かす魂の表現でありました。
(中略)殊に天皇が国の平安と民の幸福を神に祈られる時、あるいは年の始めに国民に対してよき生活を祝福される時、短歌によって心を表現されるのです》
岡野さんは、このように天皇の詠む和歌、「御製」について説明している。そして、岡野さんは二首目の《をとめらの雛まつる日に戦をばとどめしいさを思ひ出にけり》の心温まるエピソードについても紹介している。
'32年1月、中国の上海で、中国軍と日本軍が衝突し、いわゆる上海事変が起きた。上海派遣軍の司令官だった白川義則大将は、昭和天皇の意を受けて停戦したという。『昭和天皇独白録』(文春文庫)によると、天皇は白川大将に《3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるであろうと思っている》と、依頼した。白川大将は、天皇の言葉を忠実に守り、陸軍中央の反対を押し切って戦火を収めたという。
ところが、その年の4月29日、上海で開かれた昭和天皇の誕生日を祝う祝賀会の会場に、爆弾が投げ込まれ白川大将は負傷、その後、死亡した。天皇は白川大将の生前の功績をたたえ、遺族に対し、「外部に絶対に、発表せぬように」との注意を添えて、この和歌を贈ったという。
岡野さんは《天皇の平和を願われる気持ちと、残された大将の遺族を思う心とが、しっとりと伝わってきます。日本の文学史の中に永く伝えられるべき、やさしい物語の背景とこまやかな天皇のお心のひびきあった歌だと思います》と、感動を込めて記している。
曽祖父である昭和天皇の激動の生涯から学ぶことで、愛子さまや佳子さま、そして、悠仁さまたちが新しい知識や視点を得たり、優れた発見をするかもしれない。「温故知新(故きを温ねて新しきを知る)という言葉の意味を、もう一度、かみしめてみることが佳子さまたち若い皇族に必要なことではないだろうか。
<文/江森敬治>