ターニングポイント『少女A』誕生秘話

 作詞家になって1年。雅勇はすでに50曲ほどの歌詞を手がけ、業界内では「ポップな阿久悠」といわれ注目を集めつつあった。しかし作詞家として知名度はいまひとつ。

 '82年3月。そんな雅勇に転機が訪れる。歌唱力では折り紙つきの中森明菜のデビューである。

「プロの作詞家でやっていくには、こういうアイドルのを書かないとダメだよ」

 そう事務所のスタッフにも釘を刺されていた。デビュー曲はすでに来生えつこ作詞、来生たかお作曲による『スローモーション』に決まっていた。セカンドシングルも来生姉弟による『あなたのポートレート』が有力だった。

 しかしコンセプトを持った楽曲で、ほかのアイドルと差別化を図りたい明菜サイドは常に野心的な作品を求めていた。だが雅勇は、

「当時アイドルの歌詞を手がけたことがなく、気恥ずかしくて正直、気が進みませんでした」

 しかも締め切りまでわずか1週間しかない。タイトルが浮かばないまま数日が過ぎたころ、明菜のチラシを眺めていて、

「ちょっとHな美新人っ娘(ミルキーっこ)」

 というキャッチフレーズが引っかかった。

「プロフィールに16歳と書いてあることから、自分が高校生のころ、周りにいたセクシュアルな女の子のことを想像してみました。そこで思い出したのが、浅黒い肌をした早熟な14歳の美少女、シノハラヨウコです」

 故郷の足利市でスナックを営む、シングルマザーのもとに生まれたシノハラヨウコ。人目もはばからずに、

「売野くん、大好き」と思いを打ち明けられ、1度だけ誘惑されたこともあった。

 コケティッシュで愛嬌があって明るい彼女を思い出しているうちに、雅勇には楽曲の全貌がおぼろげながら見えてきた。

「『少女A』。その記号でシノハラが、ニュースになる可能性を僕は知っていました」

 雅勇は油性ペンで原稿用紙に大きな文字で、

「少女A(16)」

 と書いてみた。新聞の社会面と同じように、最初は年齢も入れていた。

「チャラチャラしたタイトルではなく、社会問題を切り取ったタイトル。これだったらアイドルを書いても恥ずかしくない。そう思ったんです」

 歌詞のボキャブラリーとは思えないこのフレーズを使うことで、違和感を生み出す。

「視聴者に、何これ!?」

 と思わせる。

 このタイトルこそ、売野雅勇が生み出した発明。コピーライターだからこそ思いつくことができたのか。それはまさに、日本の歌謡界に革命を起こす瞬間でもあった。