歌謡界の“ドン”をも唸らせたアクシデント
ところがこのデモテープを聴くなり、明菜の表情はみるみる曇った。
「イヤだ。絶対に歌いたくない」と言って、泣きじゃくり、頑なに歌うことを拒んだ。最終的に、担当する島田雄三ディレクターが、
「もしこれが売れなかったら、俺が責任を取る」
と啖呵を切ってレコーディングにこぎつけた。そんないきさつがあったことなど雅勇は知らされていなかった。'80年代の歌謡界を、ひっくり返してしまうほどの破壊力を生み出した『少女A』。
だがこの歌詞に驚愕したのは、明菜だけではなかった。'70年代から歌謡界に君臨するドン・阿久悠もまた、この曲に驚きを隠せなかった。
「『少女A』のヒットの後、まだご挨拶もしたことがなかったので、ゴルフの帰りに先生の伊豆の別荘に遊びに行くことになりました」
そのゴルフのプレー中、まさかのアクシデントが襲う。
「8ホール目、第3打を打とうとキャディさんのところにクラブを取りに行ったときのこと。
下半身に衝撃が走り猛烈な熱さが下腹部に広がりました。
それから1秒とおかず、悲鳴を上げずにはいられないほどの激痛が走り、叫び声を上げながら僕は芝生の上をのたうち回りました」
事もあろうにゴルフボールが雅勇の股間を直撃したのである。
「睾丸が潰れたのかもしれない。1人だけでも子どもをつくっておいてよかった」
そんな思いが雅勇の脳裏をよぎった。病院に運ばれ検査を受けると、ゴルフボールは急所に当たってはいたものの大事には至らず。まさに九死に一生を得た。その話を聞いた阿久は、
「そんな話、聞いたこともない。これはひょっとすると、超弩級の大ヒットを当てる。そういうことかもしれんねぇ」
高台にある別荘のリビングから真っ青な海を見つめ、そう真顔でつぶやいたという。
昭和歌謡史を生き抜いてきた阿久だからこそ唱えることのできた予言。それが間もなく実現することになるとは、まだ誰も信じてはいなかった。
アイドルから演歌まで、'80年代歌謡界を牽引
'84年1月21日、チェッカーズの2枚目のシングル『涙のリクエスト』が発売された。
音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の「今週のスポットライト」に登場して人気に火がつくと、3月に入って7週連続で第1位をキープ。
それにつられるようにデビュー曲の『ギザギザハートの子守唄』もランクイン。5月1日にサードシングル『哀しくてジェラシー』が発売されるとベストテンに3曲同時にランクインする快挙が1か月にわたって続いた。
しかし雅勇は、自分が作詞を手がけた『涙のリクエスト』がデビュー曲に選ばれなかったことが不本意だった。『ギザギザハート』のセールスが期待どおりに伸びなかったころ、心配するメンバーに『涙のリクエスト』は売れますかと聞かれ、
「ビートルズだってデビュー曲『Love Me Do』は全然売れなかったけど次の『Please Please Me』で売れたんだよ。中森明菜だってそう。2枚目の『少女A』で売れただろ。期待してて」
そう自信満々に言い放った。結果、タータンチェックの衣装に身を包んだチェッカーズはあっという間にスターダムに駆け上がっていった。
「『涙のリクエスト』は、映画『アメリカン・グラフィティ』をヒントに、主人公の少年がDJに電話して年上の女の人に曲をプレゼントするシークエンスを切り口に、たった1時間45分で書き上げました。こんなことは珍しかった。
おそらくテーマが良くて、言葉の選択が適切で、みずみずしいフィーリングと第六感が冴えわたり、ちょうど良いバランスで書けたからだと思う」
ボーカルの藤井フミヤは当時を振り返り、
「売野さんの歌詞の世界がそのまま“ちょっとヤンチャで、ナイーブで、ハートブレイクな少年たち”というチェッカーズのイメージをつくり上げたと思います」
そう話せば、雅勇自身もチェッカーズへの思いをひそかにこう語っている。
「気がついてくれる人は少ないんだけど、本当はリーゼントにしたかったくらい僕はロカビリーが好きなんだ。だからチェッカーズはすごく書きやすかった」

それを裏づけるように、その後も『星屑のステージ』『ジュリアに傷心』『あの娘とスキャンダル』『俺たちのロカビリーナイト』『Song for U.S.A.』と作曲家・芹澤廣明とタッグを組んだ「売芹コンビ」はヒットを連発していく。共に“運命の男”と呼び合う芹澤は雅勇のことをこう評している。
「歌詞の1番と2番の字数が合ってないのは当たり前。そしてその当時に流行り始めた、ハッとさせる言葉を選んで書いてくる。そこが斬新でアバンギャルドだった。
少年少女の夢を『Song for U.S.A.』に託してやめたかった。
“売芹”でショボい終わり方はしたくなかったからね」
チェッカーズの快進撃と共に、雅勇への歌詞の依頼は殺到。近藤真彦、荻野目洋子や河合奈保子、菊池桃子といったアイドルから、稲垣潤一、RA MU、カルロス・トシキ&オメガトライブ、杉山清貴といったシティ・ポップ。そして森進一、細川たかし、藤あや子といった演歌歌手に至るまで幅広く手がけるようになり、気がつけば'86年、'87年に2年連続で作詞家として「レコード売り上げ枚数1位」を獲得。'80年代の音楽シーンを牽引する存在となっていた。