クールスR.C.のボーカルからCKB結成へ

「古着の販路を広げようと、たまたま立ち寄った店がクールスR.C.のリーダー・佐藤秀光さんの店『CHOPPER』だった。偶然にも堀越時代の同級生が店長の後輩だったこともあって、オレはクールスR.C.関係者と急接近することができた」
当時、剣は17歳。
「CHOPPER」のバイト店員から始め、「クールスR.C.」のボーヤ(ローディー)として採用されると、ファンクラブの責任者を経て、いつしか新生「クールスR.C.」のツインボーカルに抜擢された。
しかも剣が手がけたオリジナル曲『シンデレラ・リバティ』がデビュー曲に決まる。まさに絵に描いたようなシンデレラ・ストーリーの始まりだった。
「ハーフのような顔立ちとルックスは、新生クールスR.C.のボーカルにふさわしかった。しかも歌に説得力があった。ロックだけでなく演歌や昭和歌謡。なんでも歌いこなせる。打ち上げのカラオケで歌ってみせた、コブシをきかせたぴんからトリオの『女のみち』は絶品だったね」
こう語るのは、当時クールスR.C.のベーシストで、後にCKBを剣の右腕として支えるトニー萩野(萩野知明)。
横山剣、21歳。前途洋々。
酒とバラの日々が待ち構えているかに見えた。しかし、アルバムを5枚、シングルを3枚発表したころ、
「レコード会社から、もう一度昔のクールスに戻れと言われ、オレの居場所はなくなった。存在そのものが否定された気分になって'84年2月のライブを最後に、ファンに別れも告げずに脱退。東横線に乗ってひとりで横浜に帰った日のことは、今でも覚えているよ」
その後も「ダックテイルズ」「ZAZOU(ザズー)」「CK'S」を経て、'97年に「クレイジーケンバンド」を結成するまでの13年間、剣は雌伏の時を過ごす。
しかし頭に響き渡る「SOUL電波」、脳内メロディーが鳴りやむことはなかった。
「ある日、家に遊びに行ったら、風呂に入ってる途中で何かメロディーを思いついたのか、ずぶ濡れの全裸でキーボードのある部屋に飛び込み、録音する姿を見たことがありました。あの鬼気迫る姿は忘れられません」
と話すのは古くからの友達でCKBのメンバー、スモーキー・テツニこと高林辰男。

そして、'97年。剣はついに「クレイジーケンバンド」を結成する。
「クールスR.C.」をはじめ、数々のバンドで爪痕を残してきた剣。しかし自分の意思でバンドを結成したのはCKBが初めてのこと。そのやり方は、ユニークで型破りなものだった。
「メジャーデビューは考えず、あくまで自主制作にこだわる。そんなやり方を選んだんだ」
その結果、ファーストアルバム『PUNCH!PUNCH!PUNCH!』は原盤権を死守したまま、委託販売。当初、3000枚しか売れなかったが、レコーディングなどでかかった費用を差し引いても、儲けを出すことができた。
実父であるタネオヤジ譲りのやり方が、功を奏したともいえる。
当初、本牧を拠点に活動するつもりだったが、その時点でIGもVFWも解体されることが決まっていた。そこで横浜・長者町にある「FRIDAY」を根城に、あちこちでライブ活動を展開していった。
当時37歳。結婚して家族もできた。昼間の仕事と二刀流。さすがに、焦りを感じていた。
しかし思わぬところでブレイクのきっかけをつかむ。
「昭和歌謡の匂いのするブルージーでファンキーな規格外のCKBの音楽は、'99年にリリースされたリミックスアナログ盤『ヨコワケハンサムワールド』あたりからクラブシーンでも注目を集めます」(萩野)

そして迎えた'02年。CKB初のCMソング、J―PHONE『クリスマスなんて大嫌い!! なんちゃって』がスマッシュヒット。
長者町「FRIDAY」のころから、ライブに来ていた宮藤官九郎が、自身のドラマのオープニング曲に『タイガー&ドラゴン』をプッシュしたことで、不動の人気を得ることになる。実はこの楽曲には誕生秘話がある。
「剣さんはこの曲を、セルジュ・ゲンズブール風のフレンチ歌謡風に仕上げるつもりだった。
ただ当時、港で検査官の仕事をしていてレコーディング中に爆睡。寝ている間に東映チックなドスのきいた純和風に仕上がっていたんだ(笑)。
もしフレンチ歌謡に仕上がっていたら、あのドラマに採用されることもなかっただろうね」(萩野)
デビューから28年。今年の9月3日に25枚目のアルバム『華麗』をリリースしたCKB。
「できたてホヤホヤの『LOVE』から40年前にサビを作った熟成蔵出しの『ディープ・ブルー・ナイト』まで、ご機嫌なアルバムに仕上がったよ。
永ちゃん、ユーミン、山下達郎さん、桑田佳祐さん。先輩レジェンドもまだまだ元気。オレも『脳内メロディー』が鳴りやむまで突っ走るぜ」
<取材・文/島 右近>